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    早見あかりとももいろクローバー (1)

    <題1章 早見が髪を切った頃>

     エッジのきいた眉、強い意志を秘めた瞳、透き通った鼻すじ、はにかんだ唇、早見あかりはももいろクローバーというアイドルグループにいた頃、青の子と呼ばれていた。

    ポスター

     早見あかりが2011年1月16日にももいろクローバー脱退発表の3か月前に髪を切った。その一ヶ月後にこの写真がポスターとして首都圏の駅構内に一斉に貼り出された。

    ポスター2

     このポスターが貼られる前と、張られた後に一度ずつ、早見は髪を切っている。ファンに髪を切った理由を聞かれても、気分としか答えない。2010年9月に始まったメジャーセカンド(ピンキージョーンズ)ツアー「秋の陣~天下を獲りに行くぜっっ!!」が始まった頃に髪を切り、11月11日オリコンデイリーランキング(6位)が発表された直後と11月17日オリコンウイークリーランキング(8位)の発表があった日に髪を切っている。「行くぜっ!怪盗少女」のメジャーデビューでオリコンデイリー1位を取った後、がむしゃらに走り続けてきたももクロに早見は大きな越えられない壁を感じていたのではないだろうか。
     早見はららぽーと柏の葉でファンへの脱退報告を行い、「自分で考えて、メンバーにも言わず、マネージャーさん達が決めた訳でもなく、早見あかり自身が決めた。私が考えて考えて出した結果が、ももいろクローバーを辞めるということでした」と感情を懸命に押さえながら述べている。 
    早見あかりという15歳の女の子は何を考え続けたのだろうか。

     早見あかりは1995年3月17日に早見家の長女として東京に生まれた。あかりという名前は『夫婦二人しかいない我が家に灯をともしてくれるように』という意味だと言う。

    早見幼少1

    早見「『灯』という漢字は『あかり』とも読みますよね。母になんで平仮名にしたのか聞いたら、漢字だとあまりピンとこなかったからだそうです(笑)。」
     小さい頃はお花屋さんになりたかったと早見は言う。雑誌やテレビ、その中にいる人は「カッコいいな、かわいいな」と憧れていたが「芸能界に入りたい!」みたいな意識はなかった。

    早見「自分の顔まんまだと思うのは、父親の顔ですかね、本当にお父さんそっくりで、
    私の男バージョンがお父さんなんですよ。顔も全部ですね。体型も全部父親譲りで、この立派な肩幅も父親譲り、ねえー本当に困っちゃう。お父さんに似てるので、自分にそっくりなのはお父さんかな」
    早見「母はかわいらしい人で、よく変顔をするんです。私も真似して幼い頃からよくやっていたから、他の人よりも顔が柔らかいんですよね。眉毛も自由自在に動かせちゃいます」

    早見幼少2

     早見は「私が、小ちゃい頃、ずっと男の子みたいにアイドルには向いてない性格で育ってきて」と自分のことを語る。さばさばとした性格で、自らを男っぽい性格なのに運動大好きの運動音痴と自嘲したりもする。

    早見「あかり、今までずっと続けてきたことなんて、競技化エアロビクスの9年間とこの仕事だけだもん。他のことはすぐ飽きちゃう。興味を持ってもすぐ飽きちゃう。」

     やらされ感のある習い事はすぐ飽きたが学校の成績はよかった。

    早見「例えば授業で書いたノートを写真でガンと頭に入れちゃんうですよ。だから、タイトルが上にあって図が下にあってそこに何か書いてるのを全部覚えるんですよ。だから、台本でいうと文字の並びをそのまま頭にいれちゃうんです、だから台本を覚えるのはすごく早いんですよ。私の覚え方はすごく早く覚えられるけど、すぐ忘れちゃう、そこが難点。すぐ覚えられるけど、すぐ忘れる、だから身にならない」

     写真のようなイメージをそのまま記憶する能力は映像記憶と言われる。この能力は幼少期に普通に見られ、通常は思春期以前に消失する。言語によって抽象的な把握をする能力が向上するにつれ原始的な記憶能力といえる映像記憶が衰えるのだが、早見の場合、この能力が継続する稀有な例だといえる。早見は眠らないと駄目なんですと言っているが短期記憶から長期記憶に移行するには映像記憶は不要な情報量が多すぎるため人より多く睡眠を取らざるを得ないからなのかもしれない。映像記憶を保持し続けた著名人として谷崎潤一郎、黒柳徹子、山下清、畑正憲等がいる。自分が当たり前のようにできることは誰でもできるものだと思いがちで、早見も自分が特殊な能力を持ち続けているとは思っていないようだ。勉強が嫌いといいながら高校に入っても暗記系の科目はほぼ満点に近い点を取っている。

    「中学生のときからお仕事で学校に行けないこともあったりして、それで“私は勉強をやらない”って決めちゃったんですよ。でも、やってたらもっと何か変わってたんじゃないのかなって。本当に勉強していればよかったなって思いますね。暗記が得意でやれば結構出来ちゃうタイプなので、成績はそんなに悪くなかったんですけど、全く身に付いてないんですよ(笑)」

     早見はもう一度やり直せるならどの時点からと聞かれてこう答えている。

    「小学6年生に戻って、芸能生活を経験しない自分の人生を歩んでみたい。やっぱり、小学校の時に事務所に入ってから、お仕事メインで物事が動いていると思うので、それがなかったらどういう人生を歩んでたのかなってのが気になります。小学校、中学校、高校と出て、そのまま勉強して、いい大学に入って、いいトコロに就職してっていう、なんか堅苦しい生活をしてたんじゃないかなって思います。遊ぶことよりも勉強して、いい会社に入ることが自分の幸せだって思うようなタイプなんじゃないかなって、そう思いますね。」

     早見は普通に生活する道を選ばなかった。

    「芸能活動始めたきっかけは、小学6年生の時に、スカウトです。その前にもスカウトされたことがあって、テレビとか雑誌の中にいる人たちはカッコいいなって思ってたりもしていたから、その時もやりたいと思ったんですけど、両親に反対されました。
     でも、小学校6年生で今の事務所にスカウトされて、担当の名刺を頂いたんです。その名刺の裏にはそうそうたる所属タレントさんの名前が並んでいて『もしかしたらアノ有名人に会えるかも』くらいの淡い期待と、『カメラテストを受けてもらいます』と言われてプロのメイクさんにメイクされて、プロのカメラマンさんに撮られるなんて一生の思い出というくらいの好奇心が、今思えばきっかけになりました。
     もう一度スカウトされた時は前よりもちゃんと自分の考えを持っていたし、『ものすごくやりたい!』って。その気持ちを両親にいったら、『レッスンとかオーディションに自分で通うこと。お母さんは付いていかないよ。全部自分で考えてやるっていう条件ならいいよ』って。『頑張る』って言って、スターダストに入りました。」

    早見制服

    早見は何故ももいろクローバーに加入したのだろうか。

     早見とももいろクローバーとの出会いはももいろクローバーの育ての親である川上あきらとの出会いでもある。
     川上あきらはその富士額とももクロの移動時に真っ先に目印になるような裸の大将と揶揄される体躯を持ち、選手に付き添い、試合中のインターバル時に選手へ作戦を授けたり、汗を拭いたり、傷の手当てをするプロレスラーのセコンドように、ももクロに付き添っている。時には選手に凶器を渡す代わりに言葉の飛び道具をももクロに授けたりもする。
     「ロックファンの皆さん、目を覚ましてください!」
     ライブ中に選手がファイティングポーズをとる限りタオルを投げることはしない。
    その内面は外見に似合わず繊細である。人見知りでももクロのメンバーすらも二人きりになると無口となり、人と話す時も目を合わせられないで耳の後ろが真っ赤になるような一面がある。また、Tシャツを1日、3.4枚着替えたり、メンバーからいい匂いがするんだよねと言われるくらい体臭には気を使う。職業側、日常付き合うことになる女優に生理的な嫌悪感を与えないようにするための配慮は欠かさない。

    川上あきら

     川上がももいろクローバーを立ち上げる前、沢尻エリカのマネージャーが主たる業務だった。
     沢尻は川上が育てた女優である。スターダストにはマネージャーもいない女の子達が一杯いた。スカウトやオーディションで集められた子供達が仕事もなく、なんのためのレッスンかわからないまま、事務所を去っていくことも珍しくなかった。そんな子達のためにスターダストでは2000年頃「ANJEL EYES」という発表の場を作ったり、BSデジタルの「Harajukuロンチャーズ」というテレビ番組の枠をもらいスターダストの育成部門の子供達に司会進行、レポートをやらせた。その現場に川上は携わっていた。川上はマリエ、佐藤めぐみ、枡田絵理奈(現TBSアナウンサー)、小嶋陽菜(現:AKB48)等の50人以上いたメンバーの中から沢尻を選んでマネージャーとなった。さばさばとした性格で、本人も自らを男っぽい性格だと語り、中学生ながらしっかりした考えを持っていた沢尻に川上は惹かれたのかもしれない。

    沢尻エリカ

    沢尻は2005年井筒監督の「パッチギ」という映画で映画賞の新人賞を総なめにし、初主演ドラマ『1リットルの涙』でブレークした。更に2006年には歌手デビューし、女性アーティストのデビュー作最高初動売上(初動15万枚)を果たしている。ただ、歌手でもない自分の歌がヒットするなんて何かがおかしいと沢尻は語っている。そして、ブレーク後の過密化するスケジュールに沢尻は耐えられなくなっていった。
     鶴瓶のトーク番組『A-STUDIO』でその頃のことを語っている。

    鶴瓶「ももクロの川上さんと、僕、仲いいんですよ。その前マネージャーだったらしいですね。」
    沢尻「スターダスト時代の、ももクロちゃんとかも当時知ってて、それこそ、川上さんは、なんでも知ってますからね」
    鶴瓶「だから、僕、個人的に電話入れたんですね、いい奴やと。仕事入れ過ぎたことを謝っときたいと。
    ほんで、環八横切って逃げて、捕まえにいったと言ってた。そんなことあったん、謝っといてほしいわー、ゆうて」
    沢尻「当時、環八沿いに住んでたことがあって、もうホント、パンク寸前だったんですよ、二十歳くらいですかね、もうほんと、環八を横切って」
    鶴瓶「6車線を横切って、それを川上がバー追いかけて、お前、それあぶないでー、死んでまうでー」
    沢尻「タクシー止めて、早く逃げてーって」

     マネージャーはスケジュールを作りタレントに場を与え補佐するのが仕事だ。川上は自分のタレントのスケジュールを調整することに夢中になる傾向があった。
    川上「スケジュールを組むのはすごく面白いんですよ。昔は時刻表をずっと調べていました。今はインターネットのお蔭で。さらに細かく移動手段をあれこれ考えられるようになりました。もう気分は西村京太郎ですよ(笑)。ここで電車を乗り換えて、この駅でおりて空港に向かって、そこから飛行機で移動して…なんてことをいつも考えてます」
     人は誰もが夢中になるとスケジュール上で動くのが人だということを忘れてしまう。人がコマであり数字と化してしまった時に最高の効率が得られることに夢中になりがちだ。

     2007年9月29日、映画『クローズド・ノート』の舞台挨拶で不機嫌そうに「別に」と言った沢尻の言動に非難が集中し、世間・マスコミなどによりバッシングを浴びせられる。

    沢尻「“別に問題”を起こす数日前の生放送で、当時は新聞やテレビの取材が160件あり、精神的にピークで“人”じゃなかった。本当に末期の状態で。数年後にYouTubeで(番組を)見返したことがあるんですよ。さすがに自分でも引いちゃって。すみません。本当に反省しております」(『シューイチ』)

     当時、沢尻は何も悪いことなんてしてないと謝罪することを拒否した。ヒステリー状態のマスメディアは沢尻の態度を叩き、幕引きを図った会社側の意向を受け、川上は沢尻に説得を重ね、沢尻は涙の謝罪会見を行った。パッシングは沈静化したものの仕事は潮が引くようになくなり、マネージャーの川上は何もやることがなくなった。2年後に沢尻はスターダストプロモーションとの専属契約が解消され、芸能活動を2010年春まで休止し他の事務所に籍を移した。川上にとって幼少の頃からマネージメントし、初めてブレークしたタレントが沢尻だっただけに言葉に表せない思いがあったと思う。
     川上は自分が影響を受けた人物として沢尻エリカを上げている。

    「パブリックイメージとして表に出ているエリカちゃんは、ツンとしたイメージがあると思うんですけど、なんだろう情熱的っていうか、すごく人情味にあふれた人なんですね。同じ寅年なんで一回り違うと思うんですけど、エンターティメントとしての考え方というのは、エリカさんから学んでいますね。全てにおいての見せ方だったりとか。後はこれをお客さんが観たらどう楽しんめるかとか常に考えてたと思います。それはマネージャーをやってて、僕には足りなかったことだと思うんで、今考えると沢尻から学んできたんだなと思いますね。ももクロにも言ってるんですけど、マネージャーよりタレントの成長速度の方が早いんだと思うんですよ。受けてる仕事だったり、表に出ているわけで、タレントは。マネージャーの方が生きてる年数は長いんでしょうけど、これを抜いていくと思うんですよ。それにいかについていけるかがマネージャーだと思うんですけど。ももクロなんかも僕より早い速度で動いてると思うんです。沢尻は、それが凄かったですね。入ってきた時はプリクラを張ってオーディションを受けたんですけど、その頃から図抜けて可愛かったですね。ただ、うちの本流ではなかったんです。そこから彼女の自分の努力があるんですけど、逆に芸能界でどうポジションをとっていくかは沢尻さんから学びました。今でも尊敬してます」

     2007年10月にスターダストにいる60人くらいいる若手の女の子達を芸能3部とういう部署に集めアイドルグループを作るプロジェクトが藤下リョージの音頭で始まった。藤下も当初はアイドルグループを作るつもりはなかったが、その頃、噂になり始めたAKB48・チームBの公演を芸能3部のマネージャー達で見てきて異口同音に「良かった」というのでやることに決めたという。芸能3部の育成担当でもあり、沢尻の件で仕事がなくなった 川上に藤下リョージから「発表会をやるからアイドルグループを作れ」と指示があった。藤下はそりが合わない女性の上司の下でくすぶっていた川上を引き取って自由に仕事させてくれた恩人であり、沢尻の件で元気をなくした川上への配慮だった。
     
     3B juniorはスターダスト芸能3部の若手育成部門で2006年に始まった。3B juniorは3部の子供達と3年B組金八先生をかけて藤下リョウジが名付けた。(2014年からは、女優ではなくアイドル育成に特化した部門として独立・再編された)スターダストプロモーションはハロプロやアミューズと違い、役者として将来やっていけるかという観点で採用するため、歌唱力やダンスができるというのは選考のポイントにならない。当然、歌えない、踊れないという女の子が多く、アイドルグループと言われてもピンとこない子が大半だった。2008年に3B juniorにスターダストの若手を集めることになり、2007年12月に芸能3部の女の子達と新しいアイドルユニットの宣材撮りがあった。
     百田夏菜子は1994年7月12日静岡県浜松市で百田家の長女として生まれた。百田は3才から新体操を習い始め、ダンスの基礎が足りないと言われてダンススクールに通い始めた。レッスン料が只なのに惹かれてスターダストのオーディションに応募した。小学4年の時にオーディションに合格したものの1年くらい放置された後、演技レッスンにこないかと言われて静岡から毎週土曜日に通い始めた。

    早見と百田

    早見「夏菜子とレッスンであったことあるんだよね。演技レッスンで会ったことはあるけど、ちゃんと名前とか知ったのって、3部に所属する前の宣材撮り、だよね」
    百田「そこでばったりとか、同じ時に3部に入ったんだよね」
    早見「そう、3部に入ったのは同じ時だけど、そうだ、スターダストプロモーションの芸能3部に移動したんだよね。ちょうど同じ時期に移動したんだよね。」
    百田「あっ、レッスンで会ったことあるー、みたいな」
    早見「詩織、その時、詩織がいたんだよね。」
    百田「そうそう、3人一緒だったんだよね、すっごいね」
    早見「見たことあるな、この子達って、雰囲気から始まったよね」
    百田「その時、あかりんと一緒に写真とったのね。その時、二人とも前髪ないの」
    早見「そうだ、その写真あるの、見たい」
    百田「あかりんがねー初々しい」
    早見「あかりが初々しいだって」
    百田「演技レッスンでは会ってた筈、でも演技レッスンでは、からんではいなかったね。」
    早見「ねえ、マックに行った!」
    百田「マックに行ったの結構、後だったよね」
    早見「段階的にー、赤の他人、顔見知り、知り合い、しゃべったことある人、『ちょと行かない?』、『ウッ、ウン』とかそんな感じだったよね」
    早見「その時、夏菜子喋らなかったなー、5人ぐらいで行って学校の話とかしてるのに、超おとなしかった。猫かぶってだけだよね、多分あれですよ、本当の自分を見せちゃいけないみたいな壁を作ってたんだよ。あっ!そういうことか、こっちの言葉、標準語になれてないから、しゃべらないでおこうという感じだったの」
    百田「そうかもね。演技レッスンの時に普通にしゃべってたの。「エツ、何それ」って言われて、私もわかんないから、しかも私のところの方言って。「何とかダラー」とか「何とかダニー」とか言うじゃん。で、「ラッ!、ラッ!」とか言われて、あー方言だって気づいたの」                     (早見あかりのわかーんない#2)

     映画のオーディションで母親と一緒に来ていた早見と百田が偶然道で出会い、母親同士が話す後ろで、なんとなく二人で会話を始めてから親しくなっていった。そして、2人で入ったマックで話し込んだ。同じ学年で、お喋りが好きで、好対照な性格なのに、どこか似通っている二人は意気投合していった。この頃、一緒にももいろクローバーというアイドルグループを始めるとは思いしていなかった。

    百田「ももクロになったことに意味なんかなかった。ただ…ちょっと、少しだけ可愛かったのかもしれない」(2012年の気志團万博にて)

     当初のももクロのイメージは藤下の好みをベースに作られた。「和」のテーストも藤下好みの高井つき奈というメンバーの特技が日本舞踊に由来する。初期のももクロは川上マネージャー1人の体制ではなく、他にもマネージャーがついて始まった。
     宣材用の写真にしっくりこなかった川上はダンスができるメンバーという視点で2008年3月に百田と玉井をメンバーに呼び、「あの空へ向かって」という歌の歌詞をメンバーにつくらせ、これで発表会に出ることを告げた。

    百田「ももクロとか、名前も決まっていない時に、6人、おんなじ時間におなんなじ所に集合ねって、夫々言われて、その時間になったらぞろぞろ集まってきたのね。全然みんな知らないから、なんだろうかって感じで、6人そろった時に『このグループでユニット作ります』みたいな感じで、なんか『えっ!』みたいな、知らないんですよ、みんな、それも最初はレッスン感覚で始めますみたいな」

     2008年5月に川崎アゼリアで行われたスターダスト芸能3部オーディションでももいろクローバーは初イベントを行った。
     この日をももいろクローバー結成記念日としている。
     ただ、代々木の路上公演ライブまでほとんど活動していない。川上の中で今後どう展開していくかは決まっていなかった。

    ももクロデビュー

    川上「代々木公園は、それをやっていくにあたって、あまりにもアイドルの知識が僕に全然なかったので。それでAKBさんの劇場に行かせていただいたりして、もう凄かったです。ショックでした。自分でもマネージャーをある程度はやっていたんですけど、こんなに凄くエンターテインメントして作られるものもあるんだ!ってことを感じたときは、凄いショックを受けました。完成された、限られた空間の中での表現の仕方、また常設の小屋を持っていて毎日公演を行っているところとか、それは本当に勉強になった。そこから自分たちも何かパフォーマンスを、毎週どこかで必ず会えるようにして、彼女たちを育てていきたいなと思って、それで代々木の路上で始めました」

    路上ライブ


     代々木で路上ライブを行うのはスターダストとしては別に珍しいことではなかった。社長も路上から活動を始めたこともあり、役者の原点は河原乞食だという社風なのかもしれない。「天使とJUMP」で共演した同じ事務所の飛鳥凜もももクロが路上ライブを始める2年前(2006年)に路上ライブから活動を開始していた。
    ライブができる現場を求めても、入金のあてのない育成プログラムの一環だっため、常設の小屋を持つかわりに代々木の路上に現場をもとめた。代々木公園の路上がももクロの劇場だった。
    「代々木公園の猫たち」という芝居と歌を披露した。まだ、歌える楽曲も少なく芝居をやっている時間の方が長かった。メンバーには「人前に出ることに慣れるためのレッスンとしてのユニット」と説明していた。

     とりあえず高城をリーダーにしてももクロを開始したものの、ももクロのイメージを川上は模索していた。この時のももクロのメンバーには川上が担当するタレントは誰もいなかった。そして川上が若手グループから選んだタレントは早見だった。早見のサバサバした男みたいな性格や、しっかりしたものの考え方は川上に沢尻を彷彿させたのではないだろうか。

    路上ライブ2

    早見「歌が大嫌いだったんですよ。路上ライブの手伝いをやってた時に、ファンの方に『あかりんは歌わないの?』って言われたんですけど、『歌だけはやりません』みたいなことを散々言ってたんです。マネージャーさんにも『絶対歌わない』って言ってました。たぶん、小さい頃から歌には囲まれていない状況で生きてきて、普通のポップス系の歌を聴くこともなかったし、歌うって意味が分からなくて『カラオケに行きたい!』って誰かが言ってるのをみると、『なんで?なんのために?』と思ってたし、ついていっても歌を知らないから聞き役になって、歌いたいとも思わない。でもダンスはすごく好きだったんですね。」

     歌が嫌いと宣言していた早見をももクロに入れるために川上が随分苦労したことが伺える。
    高城「あかりんは元々、路上時代の時に、なんか、いきなりね、今日からこの子入るからって言われて、あかりんを紹介されたの、で、その日一日レッスンやってたんだけど、それ、結局、ドッキリで、入らないってことになったの、なんだったんだろう」

     その当時アイドルのことを何も知らない川上はAKB48をモデルにしていたため、歌を歌わずに振りだけのエアアイドルでもいけると最初は甘く考えていた。川上はメンバーにも歌わなくてもいい、歌うマネだけでいいんだと言っていた。

    早見「まさか自分が「ももクロ」に入るとは思ってなかったです。どこかのタイミングで私は見てただけだったのが、ビラ配りも手伝うようになったりして。ももクロをやってるマネージャーさんと私のマネージャーさんが一緒だったから、手伝いに呼ばれてるんだなと思っていたんですけど、のちのち聞いたら、最初から入れるつもりで手伝わせてたらしいです。メンバーじゃないのにメンバーみたいな勢いでファンの人たちとしゃべってたし、ビラ配りだけじゃなくて路上ライブのMCもやってたぐらいだったので、ファンの方もメンバーも私が入ることに違和感がなかったみたいです。」

    代々木路上

     その頃のことを「かなことぺあ」というustreamで語っている。

    百田「ビラ配ったよ、ビラ」
    早見「ビラ配ったよ、ビラ配る人の無視されるつらさ知ったよ、あかり」
    百田「あたしも、ビラ配って、自分が初めてそうした経験をして、もらってもらえないことの悲しさを知って、それから、もうビラ配っている人を見ると絶対にもらっちゃう。断れなくなっちゃった」
    早見「わかる。お願いしまーすって言った時に、見るのに、(一瞥)みたいな、あああーみたいな、こーんなに残ってるのにーみたいな、ノルマみたいに渡されてさ、で、なんか、みんなで同じ場所に行くからさ、誰もが人の流れに近い場所に行こうとするの、そうするとそこに人が固まるじゃん、でも大変だったよね」
    百田「大変だったね」
    早見「でも、逆に、ももクロのことなんて知らないおばあちゃんとかにも知ってもらえてね」
    百田「しかも、木と木の間で、ラジカセで、ラジカセで踊ってて、ラジカセ一本でやってる時に、歩いてて、別のところにすっごい大きなステージ見つけたの」
    早見「お祭りやってた。ヨサコイ祭りとかやってたんじゃない」
    百田「そう、それで、うわー、あそこでやりたいね、いつかあそこでやれたらいいねー、みたいなこと話してたよね」
    早見「あたしは、ももクロじゃなかったけどね」
    百田「でも、いるんだよ!」
    早見「うん、絶対いるんだよ、MCとかやってるんだよ、よくわかんないけど」

     この時話していた代々木公園野外ステージは2年後に『天下を獲りに行くぜっっ!!(千秋楽)「帰ってきた猫たち~路上からあこがれのステージへ~」』で立つことになる。早見、百田、高城、玉井にとって代々木の路上がももクロの原点だった。
     路上ライブの道の目の前にある建物がNHKホールで紅白歌合戦をやるところだと知ったのもこの頃だ。
     そして、2年後に早見が脱退を決意する頃、路上ライブの一番前にいて、体育座りで見ていた自分を早見は懐かしがっている。

    早見「今日のビラ配りandプチライブにいっぱいの人が来てくれて嬉しかったです(≧▽≦)/
     ありがとうございました↑↑
     前のプチライブよりも司会上手でしたよね?笑
     頑張ったんです☆
     その後、夏菜子と詩織と原宿に行きましたあー=3
     ブレス買っちゃいました(^-^)v
     三人の手です!!」(2008/09/06)

    桃園の誓い

     「桃園の誓い」でもするように3人は手を合わせた。
     この時、3人が選んだ色は、百田が白、早見が黒、玉井がピンクだった。
     ももクロのイメージカラーが決まるのはこの1年後のことだ。
     まだ、玉井は小学校を卒業したばかりの中学1年、二人は中学2年だった。
     早見はももクロのももクロの加入、百田もリーダー就任するのは代々木が9月末に使用できなくなった後のことだ。

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    2014.10.19 | コメント(0) | トラックバック(0) | ももクロ

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