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    Perfume研究7 エピローグ

     Perfumeの動画を見てると、斜め後ろから息子が顔を出し「また、Perfumeかよ、何、暇してんだ!」と言われたので「暇じゃねえよ、Perfumeの研究してんだよ」と言ってしまった。

    「Perfume研究?」

     Perfume研究をやるとしても、私には音楽やダンスに対する素養も知識もない。40年前に高校の文化祭でG、Am、Cの3コードぐらいしか知らないのにギターをかきならし、お前らの高校生活なんて、そんなもんかよとアジって歌ったら、ヤめろ、引っ込めとブーイングを浴び、ビンやトイレットペーパーを投げられながら6分近く歌ったのが人前で音楽をやった最初で最後の経験だ。人前でやるだけの才能がなにのだからしょうがない。大学時代に友達のバンドと北海道ツアーを回ったりさせてもらったが、今や音楽となんの関わりあいもない。
     まあ、とにかくPerfumeチームのストーリーという切り口でやってみようとPerfumeの年表を作ることから始めた。何時何処に何をしたか黒猫さん等のPerfume古参のブロガーさん情報をあさりイベントを書き出していく。最初は売れる前の彼女たちのスケジュール帳のように真っ白だ。それでも一ヶ月に一回くらいは何かしらイベントがあり、キャンペーンから雑誌掲載履歴などわかる限りネットで検索し埋めていく。そして必要に応じて本や雑誌をAmazonでとりよせる。同じ事を中田ヤスタカやMIKIKOさんに対してやり平行して年表を作り上げる。MIKIKOさんが3人と出会った時は21才だったとか、その時代背景とかも書き込む、CDシングル、アルバム、DVDのこれまでのオリコンの売上推移を洗い出す。アミューズの企業レポートなども読み込み。そこから浮かび上がってくるテーマを決める。何故、中田ヤスタカはPerfumeの楽曲を手掛けることになったか、アイドルって何?、疑問に考察を加えて記事になり得るか判断して書いていった。Perfumeがアイドルとしての分岐点となった2009年から語り出した。書いてみると結構評判がよく、彼女達の生まれる前の中田ヤスタカから始めて順に年代を上げていくことにした。

     Perfume研究1 人間だもん 2009年
     
     Perfume研究2 中田ヤスタカ 1980年~2003年

     Perfume研究3 アイドル 2000年~2004年

     Perfume研究4 裏切りの季節 2005年

     Perfume研究5 圧倒的なスタイル 2006年

     Perfume研究6 ブレイク 2007年

     2008年はPerfumeにとってファンクラブ(P.T.A.)開始、ミュージックステーション、笑っていいとも等のTV出演、アルバム「GAME」でオリコン1位を獲得、7thシングル「love the world」1位、「GAME」全国ツアー開催、武道館ライブ、紅白歌合戦出場と一気にアイドルとして昇りつめた1年だった。
     2009年はテレビ出演に忙しく武道館ライブからライブができない日々が続いた。3月からあ~ちゃんのブログの更新がとまり、精神的な不安の噂が流れ、6月の「フライデー」によるのっち、かしゆかの立て続けにスキャンダル記事が出て、ROCK IN JAPAN vol.353のインタビューのライブができない苦しさを訴える記事が掲載され、Perfumeファンは重苦しい雰囲気で7月8日の『⊿』(トライアングル)発売を待っていた。
     Perfumeはブレイクしてからアイドルとして社会的に認知され、様々な価値観の風評にさらされてきた。口パクだから駄目だとか、声が加工されて変だとか。2008年に環境が激変し、翻弄され自分達が何をしたいのか、何ができるのか、何を求められているのかについて迷いが生じた年だったのでないか。そのことについて書いてみた。

     Perfumeに欠かせないものに中田ヤスタカの楽曲がある。中田ヤスタカはどうやってPerfumeに出会ったのか。
     BOφWY、GLAY、JUDY AND MARYを手掛け今年1月亡くなられた佐久間正英氏がこう述べている。
    「10年ほど前まで一枚のアルバムを作るには1200~1500万の予算がかかった、今の世代の方からは「バブル!」と一蹴されるかも知れないがそれは違う。(佐久間氏はプロデューサーとして印税契約のため氏のギャラは制作費に入っていない)(中略)内訳はスタジオ代、エンジニア代、レンタル機材費、外部ミュージシャンを頼んだ場合のギャランティやアレンジ料等、プラス雑費。実際の商品にするにはこれプラス・マスタリング代、その後のプレスやジャケットにまつわる経費、宣伝費なども加わってくる。この予算が抑えられると言うことは何かを削る事にしかならない。そしてその”何か”とは無駄を押さえることギャラやスタジオ代の交渉に留まらず、残念ながら『音楽の質』を落とすことになる。(中略)最近興味と楽しみのためにインディーズ(と言ってもほぼ自主制作)のレコーディングのプロデュースをしたりしている。アルバム制作費で言えば例えば60万程だったりする。彼らにとっての60万は大金だ。ライブ会場で1500円で販売して400枚売ってやっとリクープだ。それでも僕に依頼して来るのは大変な決意・熱意なのだと思う。こちらも長年の経験があるプロなのでその予算でと言われれば不可能では無い方策で関わる」
     1998年をピーク(売上6000億)CD業界は下降線を辿り続け今やその3分の1の売上に過ぎない。既にCDというメディアがレコードと同じようにその役割を終えようとしているのだ。DVDの売上がCDの売上の半分に迫り追い抜かれるのも間もないだろう。そして舞台に生バンドが登場することのないアイドルの楽曲に生バンドの演奏は必要ないのだ。中田ヤスタカ達が始めたDTPによるアルバム制作という電子音楽の中で完結する楽曲は時代の必然だといえる。Perfumeと中田ヤスタカの出会いも時代の必然だったのではないのかという視点で書いてみた。

    Sales_Value1.png

     Perfumeは紛れもなくアイドルとして社会的に認知される存在だった。今や将来なりたい職業の一つとしてアイドルは分類されている。私はアイドルに関する本を5、6冊買い込みネットを漁りアイドルについて調べていった。調べる前はアイドルというジャンルにこれ程多種多様の才能が集まり物語を作り上げているとは思っていなかった。パフォーマーとしてのアイドル達だけではない、作詞、作曲、振付、映像、演出、メイク、トレーナー、事務所のマネージャー、レコード会社そしてヲタクを筆頭とする観客達が集結しアイドルを作り上げている。これほど広く深くアイドルという地層が存在するとは思いもしなかった。乃木坂46という設立当初からレコード会社が金をかけてデビューできたアイドルグループと比較しながらPerfumeを語ってみたものの、到底語り切れぬものを感じた。毎年400人もの歌手やグループが生まれ消えていく世界で、消えていった者達の思いを夢を託されたものとしてRIJでDream Fighterを歌うPerfumeを語ったが、その消えていった者達やPerfumeを初期の頃から支え続けたヲタク達の熱意を何一つ語れていなかったと思う。そこにある無数の物語を語るには紙数も足りなかった。
     地下アイドルという世界がある。AKBのような事務所のオーディションに何度も応募しても採用されずライブ中心の活動を続けるアイドル達だ。アイドル達の夢の見返りとしてのギャラはあまりも少ない。月に数万というレベルのギャラで生活していかざるを得ない。田舎から出てきた子達はアパートも借りれないため事務所の六畳程度の屋根裏部屋を間借りして4、5人で共同生活をしている。ファンデーションの代わりに小麦粉を使い、マッチ棒の消炭でアイラインを引いて化粧する彼女達。そんなマッチ箱にすら他の人に間違って使われないようにマジックで自分の名前が書きこまれている。ご版のおかずは塩をふりかけるだけ、特別に栄養をつけたい時は自分の名前をマジックで書いた自分用の卵子を割り、卵かけご飯を食べる。毎日のライブにくるお客の人気投票や握手会を交えた物販の売上でギャラも待遇も変わる。どうやったらお客さんの気持ちをつかめれるかいつも考えてると人気投票で最下位だった女の子が浴槽をスポンジでこすりながら言う。風呂掃除は人気が無いものの役目だ。
     そんな彼女達を支え続けるのはヲタクと呼ばれるファン達だ。毎日ライブに通いオタゲーでアイドル達と一体となり応援するだけではない。彼女達がライブが終え帰宅する彼女達を「お疲れ様、お休みなさい」と声をかけるためだけに出待ちしている。今の時間だと歩いて帰るしかないだろうとか心配している。送っていかないのかと尋ねるとそれ以上は踏み込んでいけないアイドルとファンの間のラインがある。自分達にできるのは彼女達を見守ってあげるだけなのだという。何故そこまでして応援しているのかと聞くと自分達は勉強とかいろんなことをやり遂げることができなくて生きてきた。その達成できなかったものが彼女達の夢を応援することで少しでも一緒に形にできればと思っているからだという。武道館や紅白歌合戦なんて夢のまた夢なのだ。
     アイドルを支えるスタッフにも多様な才能がひしめいている。そんな才能の中にヒャダインこと前山田 健一がいる。ももクロのテーマソング「怪盗少女」や「Z伝説 〜終わりなき革命〜」の作詞作曲をした人だ。彼は京大を卒業した後、安全地帯等の作詞として知られる松井五郎に弟子入りしている。彼は彼女達にの生活に踏み込んでストーリーをつむぎ出し楽曲を提供する。あかりんというももクロの精神的な支柱だったメンバーの脱退に対して「あかりんへ贈る歌」を作るためにメンバー一人一人のあかりんへの思いを聴き歌詞にしていく、レコーディングであかりんに贈る言葉を涙が出て言えないメンバーを励ましじっと待つ。紅白歌合戦が開かれるNHKホールの前の代々木の路上でストリートライブから始めた彼女達はいつか一緒に紅白に出ることがあかりんとみんなの夢だった。彼はももクロ達を戦友と呼ぶ。ももクロが紅白に出場が決まった時にそのことを語ろうとしてラジオでうまく言葉がでてこない涙が出て止まらなくなったのだ。
     彼は作曲する時にヲタク達の掛け声を入ることまで想定して作曲する。UNDER17という桃井はることユニットを組んだ小池雅也がプロデューサーしたでんぱ組.incのというアイドルグループがある。ヒャダインは「W.W.D」でメンバーの女の子達一人一人に自分とは一体何なのかを掘り下げてもらい実話に基づいた「でんぱ組.inc」という一幕の芝居のように曲を作った。
     一人一人が自分に何があるのか、何者なのかを掘り下げライブで語る。結局、自分には結局、何もないんだということ、何者でもないことに気付く、その過程と関わってきた友達や家族への感謝を述べ、自分がいてもいい場所はここしかなかったんだとWWDの曲がスタートする。



     「裏切りの季節」は黒歴史と言われた「アキハバラブ」がPerfumeにとってどういう存在だったのかを問いたかった。Perfumeの3人にとってインディーズデビューからコンピュータシティーに出会うまでがむしろ黒歴史だったのではなかったか。初めてありがとうという気持ちをのせて歌える音楽に出会ったとアキハバラブに対しては好意的でアニメの声優をやったり、秋葉原のヲタ達の声援を受けて踊り歌うことは彼女達にとって新鮮だった。
     それに対しあ~ちゃんがきのこさんが歌う「冷蔵庫に納豆」の楽曲を聞き、ヤスタカの自宅件スタジオに踏み込んだ時の感想をこう述べている。

    あ~ちゃん「なんか、ピコピコ、ゲームみたいな・・・。なんかちょっと・・・ちゃちい音だなーって思ってました。やっぱり、『デビューするから、お金とかかけてもらうのはこれからなんだ』・・・。こういう音を知らなかったんで」

    --「バンドでやるんじゃなくて、ちょっとこう、経費削減じゃないけど、そんなイメージもあったんだ、打ち込みに対して」

    あ~ちゃん「そうです。これはもう頑張れって事だと思って、受け止めて頑張ってましたけど。」

     2004年の夏、渋谷O-EastでPerfumeはUNDER17で歌う桃井はる子と共演した。2005年にアキハバラブの楽曲の提供を受け、2006年初めまで桃井はるこのライブに呼んでもらったり支援を受け続けた。 
     当初の3枚までというレコード会社の思惑をひっくり返し2007年の3月までCDを出すことロードマップを描けたのはリニアモータガールのCD買い支えてくれた桃井はるこを筆頭とするヲタクというファンの存在だと思う。

     Perfumeはある意味、地方の恵まれたエリートアイドルだったと思う。アクターズスクールやアミューズという大手事務所、レコード会社、メンバーが離れ離れになることもなかった。
     そうした一切を失ったアイドルグループがあった。Perfumeがインディーズデビューした同じ年に「恋するねぎっ娘」でデビューしたNegiccoという新潟生まれのアイドルグループだ。2004年の10月に渋谷O-WestでPerfumeと共演している。この頃はNHKのポップジャムに出演したり新潟の地産アイドルとして東京のライブイベントにも呼ばれていた。
     Negiccoの苦難が始まるのは2005年からだ。アップル・リトル・パフォーマーズという彼女達の所属したスクールが閉校になる。歌のレッスンや振付をしてくれる先生もいなくなり、自分達で他のアイドルグループの振付を見ながら自分達で振付をやらざるを得なくなる。スクールが閉校になった時点で解散と思われたが新潟で商店街のイヴェントを企画していたNegiccoのファンだった現在のマネージャのクマさんに拾われその事務所預かりになる。楽曲もNegiccoのファンだったconneyさんという趣味で音楽を作っていた人から無償で提供してもらう。conneyさんはNegiccoに提供した『超耕21ガッター』のエンディングに「東京は夜の7時」というフレーズを挿入する程、Pizzicato Fiveと小西康陽が大好きなひとだった。
     そして翌年には当初4人で出発したメンバーからMikuというメンバーが脱退する。高校に進学するKaedeも高校進学のために休業する。この年から徳間との契約も切れ全国レベルでのレコード発売ができなくなり、事務所でCD-Rを手で焼いて発売することになる。殆ど崩壊寸前だった。
     Perfumeが持っていたスクール、事務所、レコード会社、メンバーのその全てをNegiccoは失くしたのだ。その崩壊からNegiccoを救ったのはファンの人達だ。ファンでマネージャーだったクマさんが熱心にKaedeを説得してくれた。リーダーのnaoもMikuが抜けた穴を埋めるべくカラオケボックスにこもって歌の練習をした。そして無償で楽曲を提供してくれるファンのconneyさんの素晴らしい曲を届けるという目的のためにNegiccoは持ちこたえる。2008年にGAMEツアーでPerfumeが新潟に来た時にNegiccoはPerfumeと再会を果たす。
    「実は、Perfumeさんが全国ツアーでいらっしゃった新潟LOTSで、あ~ちゃんさんとお話できたんです。2004年にO-WESTで対バンしてるんですけど、まさか私たちのこと、覚えてくれてるとは思わなくて、感動しました
    あ~ちゃんさん。『いつか同じステージに立ちましょうね』って言ってくれたんです」

     Negiccoにチャンスが訪れたのが2009年のGyaOで配信された「ヌキ天」という番組への出演である。4週勝ち抜けば賞金100万円とメジャーデビューができるという触れ込みだった。4週目は5人の審査員全員が合格を出さないと勝ち抜きにならない。新潟からもネギを握りしめたファンがスタジオに駆けつけて応援する。ところが4週目に一人の審査員が不合格を出す。理由は自分がプロデュースするとしたらどうしたらいいか思い浮かばないというものだった。リーダーのnaoが反論する。Negiccoはこれまで自分達でプロデュースしてきたのだと自分達で振付をし歌ってきたのだと。審査員の一人だったブラザートムが今回なかったことにして、もう一度4週目をやらないかと提案する。そして本来あるはずのない5週目にNegiccoは挑戦する。5週目も審査員の一人が不合格を出す。新曲を聞きたいという理由だった。そしてもう一度新曲でのチャレンジとなる。6週目は全員の合格が出た。
     ところが、主催者のGyaOが経営不振で統合され、副賞の賞金はなくなり、メジャーデビューもあいまいになる。やっと1年後にCDを出すことだけはできることになる。
     提供してもらった楽曲「ねぎねぎRock~ 私をお家に連れてって~」で2010年に「U.M.U AWARD2010〜全国アイドルお取り寄せ展〜」にてグランプリ受賞し知名度があがるも副賞だったテレビへのレギュラー出演も一回で打ち切られる。
     そんなNegiccoを思いがけないところから救いの手が差し伸べられる。浅草ROXまつり湯の演芸イベントに毎月出演することになる。演歌や漫才の合間に温泉客のために歌う仕事で、ある意味どさ周りの仕事だった。

    nao「Negiccoのコンセプト的に、なるべくお客さんの近くにいたいって考えたんです。ライブしながら、お客さんに笑顔で握手したり、写真を撮っていただいたいり、一人でも聴いて頂けるかたを増やすにはどうしたらいいのか、こっちを振り向いて、笑って頂けるにはどうしたらいいのかなって、どれだけNegiccoを知らない方を惹きつけられるかを考えていました。以前だったら、見てくれない方のことは、諦めていました
     実際に、まつり湯のライブも、「うるさいなぁ」っていう顔をする方もいらっしゃいました。
    でも、せっかく同じ場所にいるんだから、最後にみんなで一体感が出たらいいなって、そこにいるすべての方に、笑って帰ってほしいな、って思ったんです。
    それじゃなかったら、悔しくって帰れない!とまで思いました。
    私たちって結構負けず嫌いなんです。
     どんな小さなイヴェントでも、地元でも、〈まつり湯〉さんとかでも、どこかで誰かが見ててくれるかもしれないっていうのを常に信じてやってきて。そしたら、まさか温泉のイヴェントで、そんなすごい方が来てるとは思ってなかったので。〈まつり湯〉さんのステージは、演歌歌手の方や漫才の方がやられるところなので、私たちみたいに爆音でやるような音響の感じじゃないんですけど、それが逆にアットホームな感じで楽しめたりしてて。だからすごくいいイヴェントで。音響が出なくなっても、何クソ根性でがんばらなきゃいけないなって最近すごく思うのが、いままではがむしゃらにやってきたけど、最近はどんなに知らない方でも、お客さんがあっという間に楽しんでくださるようになったのがわかって。その連鎖がすごくうれしいです。やっぱりNegiccoファンから出てる温かさと、礼儀正しかったり、常に周りの方に迷惑がかからないように、迷惑がかかったらそれがNegiccoのマイナスになっちゃうとか、ファンの方がいろいろ考えてくれてて。だから、ファンの方はすごく……誇れるファンの方ばっかりなんです」
     2011年6月3日Towerレコードがアイドル専門レーベルを立ち上げた時の第1弾アーティストとしうて記者会見で紹介された時、Negicco達はTowerレコードの嶺脇社長が毎回〈まつり湯〉に見に来てくれていたファンの一人だったことを知る。
     Negiccoはファンから楽曲を提供され、ファンによって運営され、ファンによってレコード会社を作ってもらった稀有なアイドルグループだ。

    Negicco「圧倒的なスタイル」


    Nao「苦労してたからこそ、人の情がわかる。Perfumeさんがその通りの存在なんだなって思うんです。ライブDVDとか見ても、感動して情が移るのか、胸が熱くなります。どんなに大きくなっても、礼儀正しく低姿勢でいたいって思ってます。Perfumeさんをお手本にしたいんです」
     Negiccoの代表曲圧倒的なスタイル」は曲の最後の間奏で見知らぬ観客達が肩を組み一体となってラインダンスを踊る。
     Negiccoの夢は武道館で1万人のファン達とラインダンスを踊ることだ。

     2006年はPerfumeのその圧倒的なスタイルを確立した年だ。
     そして2007年のブレークの年へと向かうところまで書いた。

     私はPerfumeの3人について、これまであまり書いてこなかった。
     西脇綾香、樫野由香、大本綾乃という個人に迫る書き方をしていない。結局3人のことを書くとすると家族のことを書かざるを得ない。プライベートなことなのでフィクションとして書くしか道はないように思えた。Perfumeの物語はある意味で家族の物語でもあるからだ。
     フィクションを書くというのはキャラクタを削り出すような行為であり、研究とは違った文脈にならざるを得ない。これから自分の書けるところから書いてみようかと思う。

     私は20年以上、音楽を聴くこともなく暮らしてきた、昔、聞いていたやロックは私にとってすでに懐メロにすぎなくなっている。

    「すでにロマンスは死んだ。
     それなのに僕らはいつしかラブソングを口ずさんでしまう」
     30年前に作った自分の映画につけたキャッチコピーだ。
     今も何も変わってない。
     
     2004年お前は何をしていた。
     2005年お前は何をしていた。
     2006年お前は何をしていた。
     2007年お前は何をしていた。

     と、問われたとしても今の私に何も答えられない。
     2004年って息子が小学校に入学したんだっけ、仕事って何やってたっけ思い出せない。
     

     2004/5/5広島フラワーフェスティバルのさくらステージ&ダリアステージにPerfume出演

    2004-FW.jpg


    あ~ちゃん「フラワーフェスティバルさんには、アクターズスクール時代から何度も出演させて頂いて、前に出た時はコブクロさんの一つ前だったんよ。
    コブクロさんの前座をやらせてもらって。もうお客さんみんな、コブクロさんが出てくるのを心待ちにしてるんですよ。だから『早く引っ込め!』って声がいろんなところから聞こえてくるんですけど、『もう1曲だけ歌わせてください!』『私達Perfumeって言います!名前だけでも覚えて帰ってください!』って、すごい必死じゃったね」

    2005/5/5 広島フラワーフェスティバルオリーブステージ「Perfumeのどっきどきオンステージ」出演

    7975b8e9.jpg


    あ~ちゃん「500円の赤いウサギがプリントされたTシャツに、夏なのに冬物のコーデュロイのスカートを穿いてスカートは穿いて」
    のっち「それしか買えんかったんよね、お金無くて」
    あ~ちゃん「アクターズにいた時よりも情けない格好で出て、お母さん、お父さん、家族にもほんに申し訳ない思いをさせたし、上京して広島に帰って来て、何の成果も挙げていないのに気を使っていて申し訳なかった。」

    P110505-0.jpg


    ちゃあぽん
    「今年は何とねー、私のお姉ちゃんPerfumeが、スペシャルゲストで凱旋ライブが出来ることになって、
     それがね昔からお姉ちゃんはFF(フラワーフェスティバル)のイベントでお世話になっとって、
     まぁ~ちゃあぽんもそれに良く出させてもらっとったんじゃけど、
     いろんな人に応援してもらえるようになってからは初めてのFFじゃけん、
     『やっぱり家族みんなで見届けたいね』って言うて、
     ほいで急遽家族みんなでFFに見に行って応援してきたんですけど、
     やっぱり昔はちっちゃいステージに立って歌って踊ったりしよったけぇ、
     感動したわ~もう誇らしゅうて、誇らしゅうて・・・すごいうれしかったです。
     お姉ちゃんも、ず~っとステージ上で号泣しとって、
     それを見てちゃあぽんもず~っと号泣して、
     なのですごい思い出に残るステージでした。本当に、素晴らしいです。
     凄かったねぇ~人がホンマにね。
     ちゃあぽん、広島であんなに人が集まっとるところ初めて見たもん!
     ホ~ントにうれしかった!
     もう自分の家族じゃないように思えてね。
     平和公園の辺りでやらせてもらったんじゃけど、もう人が埋まっとったよね、全部。
     すごかったです。
     ほいでね~やっぱりそういうのを見ると、昔上京してから毎年帰って来よったフラワーフェスティバルでね、
     こんなにお姉ちゃんらのことを見に来てくれた人がおるんじゃ~って思ったら、もう本当にうれしくてねぇ。
     ちゃあぽんもお母さんも・・・
     いや、ちゃあぽんとお母さんだけじゃなくてね、
     関係者席におった人み~んなで号泣しとったよ!
     お姉ちゃんが、
     『見て下さってるみなさんも一緒に泣いて下さっとる方がおって、
     “あっ、こんなに私たちのことを身近で見て応援してくれとる人がおるんだな”って思ったら、
     すごいうれしくて感動して泣けたんじゃ!』って話をお姉ちゃんが言ってました。
     みなさんのもらい泣きを見て、お姉ちゃんがまたもらい泣きしとってね。
     「めぐりめぐるよ~」いうことよ。すごいねぇ(笑)」
                                 NACK5 ちゃあぽん(西脇彩華)


     そして、2010年11月3日私はPerfumeのファンになった。

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    2014.01.26 | コメント(2) | トラックバック(0) | Perfume

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