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    Perfume研究6 ブレイク

     2007年にPerfumeのブレイクが何故起きたのか。ブレイクとは言ってしまえな社会現象だ。多様な価値観を持つ人々にある種の熱狂をもって受け入れられ伝播し認知されてゆく。Perfumeは2006年にアミューズのBE-HIVEプロジェクト終焉と共に解散の危機を迎え大学進学を3人を決めた。その解散の危機を救ったのは徳間レコードからすれば想定以上のCDの販売実績だった。秋葉原を中心とした熱心なPerfumeファンのCDの買い支えとテクノやロックといったアイドルとは違う客層の広がりが販売の下支えをしていた。掟ポルシェやRHYMESTERの宇多丸といった色んなミューシャンの支援も見逃せない。ただ、それでもシングル5千枚、アルバム1万枚が精一杯でブレイクと呼べる程ではなかった。
     2006年10月28日の武蔵野美術大学芸術祭「野外フェスティバル’06」でファン層の広がりを3人は少し感じられはしたが、2007年9月12日のポリリズム発売までは何が起こっているのか彼女達には実感がなかったという。
     2007年2月26日に初回盤が売り切れたため「Perfume~Complete Best」通常盤の発売されると同時に「チョコレートディスコ」が入った「ファン・サーヴィス[sweet]」をリリースする。この2本の販売開始からポリリズムがリリースされる9月末までの販売推移を表にまとめたので見て頂きたい。

    suii2007.jpg


     3月までの動きはこれまでのファン層の広がりの延長で想定できる範囲だが、7月から急激に売上が増え始める。通常であれば考えられない売上推移だ。毎週1500人の新しいファンが増え続けているのだ。この頃はPerfumeのCDを置いているレンタルCDショップはなく興味を持った人はCDを購入するしか道はなかった。「ファン・サーヴィス[sweet]」は9月末で1万枚を売り尽くし販売を終了した。「Perfume~Complete Best」はその後も売れ続け2008年4月にGAMEが販売される頃、毎週7千枚を売るピークを迎え(オリコン25位)最終的に20万枚以上のセールスを記録する。これまで秋葉原を中心とした東京近郊のアイドルグループがNHKのAC広告機構のCMに乗ることで一挙に全国区のアイドルとして認知され始めたのだ。それも普通のアイドルとは何か違う新しいアイドル像が一般の家庭に浸透し始めた。

    01 (2)


     木村カエラ「CMのね、CMに出るきっかけがね、このCMディレクターさんが言っていた話によると歌手の木村カエラ22歳がラジオ番組でPerfumeを絶賛し曲を流していたのを偶然聞いたCMディレクターが世代的に新しいのに懐かしいテクノボイスが印象に残ったと起用を決断したと、なんで私を使わないんだと(ムカ!)、これっ、何故だと!(プン!)Perfumeがね応援してたからCMに出れるのは嬉しけど、でも、あたしじゃないですか、このきっかけ、完全に、じゃこれあたしがラジオで自分の曲流してたら、あ。新しい世代的に新しいのに懐かしい、何ボイスっていうんですかね、ナントカボイスとか、私を起用することになったかもしれないですもんね。どんなタイミングで聞いたんですかね。一緒に出れないのかな。あれっ!、Perfume4人だったけみたいな、いつも踊っているという、これはありですよね、この話も偶然聴いてないかな?
     でも、これすごい話ですよね。PerfumeのCM楽しみしとかないとね。でもなんであたしを使わないんだ。私も踊れますからね。チョコレートディスコ・・NHKのCMに出させてくれー!いやーん。でもねPerfumeの人たちおめでとうございます。なんかね、いろんなとこで出てるとね、こっちも嬉しくなるし、ドキドキしますね。」
                            (J-WAVE OH! MY RADIO 2007年06月26日放送)

     PerfumeはNHKのAC広告機構のCMに出れたからブレークしたのだろうか。
     Perfumeが採用される前の2006年からAKB48のメンバーがAC広告機構のCMに出演し、「リデュース・リユース・リサイクルの3Rで地球を救おう」というメッセージを視聴者に投げかけている。出演者は、 AKB48(アキバ48)の篠田麻里子、小嶋陽菜、大嶋麻衣、峯岸みなみ、佐藤由加理だ。



     今でこそ国民的アイドルと呼ばれ、知らぬものはないAKB48だが、2006年頃は全く無名で、メジャーデビューもしていなかった。AKB48劇場(キャパ250名)もまだガラガラ、初日から千秋楽まで満員になるのは2007年春のことだ。そして2008年にはソニーレコードがAKB48を見限って契約を切られ、キングレコードへの移籍を余儀なくされる。そして2009年に選抜総選挙を行い、日本武道館2DAYSコンサート、「RIVER」でオリコン1位を獲得、紅白歌合戦出演と2008年にPerfumeに起こったブレークを追うことになる。

     AC広告機構のCMは電通と博報堂が交代で請け負うのが業界の慣習のようだ。2006年はAKB48の運営に携わっている電通だったことや金のないAC広告機構からすればAKB48は無名でギャラも安く使いやすかったのではないだろうか。
     そういった意味では博報堂の持ち回りの年だった2005年に、「地球温暖化防止大規模「国民運動」推進事業」の企画の一環である打ち水大作戦に参加したPerfumeはギャラも安く企画としても実績があるということで通しやすかったかもしれない。博報堂が2005年に環境省に提出した提案書(環境省で一般公開)を見て頂ければ、打ち水大作戦運営委員会やNHK、AC広告機構が組み込まれているのがわかると思う。2005年という年はCO2削減のためにクールビズを大々的に展開した年で小泉首相や小池環境大臣のプロモーションも企画の一部に入っている。要は公共団体、NPO、企業を使って政府が金を出さずに効率よく宣伝するにはどうすればいいのかという提案書だ。博報堂がPerfumeが打ち水大作戦に参加しアニメの声優をやり「ぱふゅーむ」として「アキハバラブ」というCDをリリースしたことなど知る筈はないが、アミューズのアイドルグループが愛知地球博のイベントに参加したくらいの認識があったかもしれない。

    打ち水
    NHK.jpg


    のっち「きひひ(笑)、ぶっちゃけるとレコーディング中です!!!!!!
     噂によると、大人達の間で Perfumeがついてけないくらい
     なんやもぅわけわからんでかいプロジェクトが動いているらしいっス!!!( ̄―+ ̄)」
                               (2017/5/4のっちブログより)

    ポリリズム歌詞中田氏宅で熟読中


     2007年の4月、新年度入りすると環境保護キャンペーン「リサイクルマーク/エコマーク」が始動する。博報堂は公共機関であるNHKのCMに直接関われないため、関連が深い制作会社TYOが NHKから委託を受けてCMの制作にあたることになる。TYOのディレクターがたまたま木村カエラのラジオ番組でPerfumeのチョコレートディスコを聞き、Perfumeの採用を提案、4月末にはアミューズにオファーがあったと思われる。4年間、現場任せでほったらかしていたアミューズの上層部がPerfumeのために初めて動き始める。CMにカタカナではあるがパフュームというタイトルがついたのはその表れかもしれない。

     『チャンスの神様は前髪しかない』(運命の女神(フォルトゥナ)は、やってきた時に前髪をつかめ、すれ違ってからでは遅い!)

     このチャンスに最も俊敏に動いたのは中田ヤスタカだったのではないだろうか。
     AKB48の時はあくまでも出演者として登場し、グループ名のタイトルもなく、AKB48のメンバーが出ていることに当時誰も気づくものはなかった。
     アミューズはCMのタイアップ曲を作りリリースすることを中田ヤスタカに望んだ。
     中田ヤスタカはクライアントが望むならエコマークを連呼したって別によかったとさえ言い切る。ポリリズムの作曲と作詞は数日で書き上げたと思わる。その後もCM用とか多数のバージョンを要求に応じて作ることになる。5月4日にはのっちのブログにあるようにPerfumeを自宅のスタジオに呼んでレコーディングを終えている。
     ただ、当時ニューヨークにいて演出の勉強をしていたMIKIKOさんの振付はCM制作には間に合わず、サビの振付だけMIKIKOさんの朋友の香瑠鼓さんに依頼している。それだけ7/1のCM公開のスケジュールはタイトだった。制作会社だけではなくNHKやAC広告機構の承認を得るにはかなり時間がかかるため6月23日にCM制作発表したことを考えると5月下旬には編集を含めてCM制作を完了していなければならない。そのCMをまず見てもらいたい。

    NHKのCM(ポリリズム)


    このCMの中で歌われている歌詞を見てみよう。ヤスタカがPerfumeに提供した歌詞には一度もでてこなかい『メッセージ』という言葉が繰り返されている。唯一エレクトロワールドで「本当のことに気づいてしまったの この世界の仕組み キミに手紙残すよ」という『手紙』がこれに近いかもしれない。

     くり返す このポリリズム
     あのメッセージ まるで恋だね
     くり返す いつかみたいな
     あの光景が 甦るの
     くり返す このポリリズム
     あのメッセージ まるで恋だね
     くり返す いつかみたいな
     あの光景が・・・

     『あのメッセージ』とは何を意味するのか。CMの制作意図からするとリサイクルであり、環境保護なのだろうが、CDとしてリリースされた同じサビの歌詞を見て頂きたい。

     くり返す このポリリズム
     あの衝動は まるで恋だね
     くり返す いつかみたいな
     あの光景が 甦るの
     くり返す このポリリズム
     あの反動が うそみたいだね
     くり返す このポリル一プ

     『メッセージ』という言葉が『衝動』という言葉に置き替わっている。『衝動』という言葉がCMにそぐわないのでCM版では『メッセージ』に変更させられたのだろうか。むしろ、中田ヤスタカは意図的に言葉をすり替えたのではないだろうか。『あのメッセージ まるで恋だね』という言葉がリフレインされることで視聴者の興味を『あのメッセージ』の本当の意味を知りたいという欲求に向かわせようとしたのではないか。中田ヤスタカの楽曲は何度も繰り返されることで彼の楽曲の良さが伝わってくる。何度も聴いている内に気になってしょうがなくなる。私の友人もテレビで流されるポリリズムを何度も聞くうちにPerfumeが気になってしょうがなくなり、動画を見、CDを買い、いつのまにかPerfumeにハマってしまったという。

     この世界をつき動かしているのは響き合う人の鼓動であり、そこから生まれる衝動ではないのか?

     以前ポリリズムについて書いた記事があるので読んで頂ければと思う。

    ポリリズム

     ポリリズムにはCM版とCDシングル版以外に色んなバージョンがある。ポリループがないラジオ版もあるが、デモバージョンという2007年8月11日のSUMMER SONIC 07」 @大阪ステージで歌われたバージョンがある。



     このバージョンでは現在のポリリズムとは歌詞が少し違っている。歌詞の並びが変わっているだけの部分が殆どだが、このデモ版にだけ存在する歌詞がある。

     「ほんの少しのキミの思いが 何かに変わる 偶然じゃない」

     中田ヤスタカはcapsule以外は提供する歌手のために楽曲を作ることをポリシーとしている。だから提供する歌手が変われば、曲の雰囲気も歌詞も変わる。そしてポリリズムという歌はPerfumeの3人のために作られた歌だ。そして3人への想いがあふれてしまった歌詞だからこそ、あえて削ったのではないだろうか。
     中田ヤスタカが楽曲を提供した歌手の中ではPerfumeが一番長い付き合いだ。中学生の頃は何を言っても「ハイハイ」と優等生のようにしか返事をしなかった3人が、他の二人のレコーディング中にゲームに興じるまでになり、ほんの少し関係性が変わっていった。

    20070504中田氏宅

     違った個性を持つ3人が織りなすリズムが、声が、合わさった時の美しさをレコーディングをしながら中田ヤスタカは知るようになる。裏表ない素直な3人に中田ヤスタカも心を開いていく。最初は泣きながらレコーディングしていたPerfumeの3人が親戚のオジサンみたいな親近感をヤスタカに感じるようになっていた。ヤスタカは制作現場の最前線にいて次の仕事に関わってくるためPerfumeの解散の危機も知っていただろうと思う。秋葉原でストリートライブをやり警官に止めらたことや、ビラを配ったり、雪に降られて中止になったことや、他愛のない話の中で聞こえてくる彼女達の声をキーボードを打ちながら拾っていたと思う。だからこそ、ポリリズムは3人にとって最後のチャンスかもしれないと彼は思ったのではないか、普通の中高校生が送るような部活や学校生活を捨て、ただ、音楽が好き、踊ることが好きという想いを伝えるためだけにレッスンを重ね、ライブをやり続けた3人が生き延びる道を閉ざしてはならない。キミたちがやってきたことに無駄なことなんかひとつもないんだ。その想いはきっと伝わるんだ。その想いがあふれすぎた歌詞を削りポリリズムは完成した。

     ほんの少しの 僕の氣持ちが
     キミに伝わる そう信じてる
     とても大事な キミの想いは
     無馱にならない 世界は迴る
     ほんの少しの 僕の氣持ちも
     巡り巡るよ

     そうした想いはファンの中にも伝わっていった。Perfumeファンになった人が必ず陥る想いがあった。何故、もっと早くPerfumeの曲に出会わなかったのか、何故もっと早く彼女達を応援できなかったのかと。そんな贖罪の気持ちを込めてCDを買いライブに足を運ぶようになるファンは多い。
     そして、9月12日「ポリリズム」がいよいよリリースされる。
     その頃の2chanのメッセージを拾った動画を見て頂きたい。



    リリースされたポリリズムのCDのB面に「SEVENTH HEAVEN」という曲がある。その曲の感想をのっちが語っている。

    のっち「君のためなら死ねるっていうすごいラブソング。
     中田さんも『踊りながら泣ける』っていってました。」
    以前、「SEVENTH HEAVEN」について語った記事があるので良ければ見てください。

    SEVENTH HEAVEN

     「SEVENTH HEAVEN」という曲は中田ヤスタカがPerfumeの3人に送ったラブレターだったのかもしれないと今では思う。

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    2013.12.30 | コメント(6) | トラックバック(0) | Perfume

    Perfume研究5 圧倒的なスタイル

     繰り返す毎日に いつしか埋もれていた
     当たり前の様に感じてしまってた
     輝いてたはずの ときめきは どうしてるの
     言い訳の言い訳を考えてばかりで
     大切なモノを見失わないでいて
     全て君の手の中にあるから

     踊ろうよパラダイス
     君だけのステップ見せつけて
     誰も追いつけない圧倒的なスタイル

                     (「圧倒的なスタイル」 歌:Negicco 作詞作曲:connie)

     夜明け前が一番暗く感じるという。ただ、Perfume的にはもっとも暗かったのは2005年ではなかったかと思う。2006年は中田ヤスタカ(以降ヤスタカと呼ぶ)作詞作曲、MIKIKOさんの振付、関さんの映像というPerfumeを取り巻くその圧倒的なスタイルの基礎が確立した年だった。そして真鍋大度氏が初めてPerfumeに注目したのがコンピュータシティからだった。
     MIKIKOさんが東京に拠点を移すのはアミューズの大里氏から2005年に演出した『DRESS CODE』で見出されれ、演出振付家として生きることを決心したからだ。
    高校生の頃ダンスに目覚め、ダンサーとして生きていこうと決心してから10年が過ぎていた。バックダンサーとして東京と広島の往復し、アクターズの先生として生徒にダンスを教え振付をしながら、逆に生徒達からモノ創りの楽しさを教えてもらったという。
    「ここから私がしないといけないのは、“先生”として留まることではなくて、“演出振付家”としてレベルアップすることなんです。正直、体当たりでぶつかりあった生徒や仲間と離れるのは想像以上にしんどかったけど、私が広島を離れた意味を感じてもらえるように、もっと大きな背中になれるように、頑張るのみです。」(MIKIKO)
     MIKIKOさんが師と仰ぐバレーの先生から教わったことを自戒として日記に書き留めている。

     『ダンサーの肉体は鍛えるほど外へと広がり、体の中に何一つ無駄な力が溜まらないようになります。
     それに反比例して精神はどんどん中へと入っていきます。
     外へ広がれば広がるほど中心がはっきりと現れてくるのです。
     これはどんな職業にも当てはまると思っています。
     今の自分の持っているものや思考がすべてではないことを知る意味では同じなのです。
     ダンスの中でもダンサー、教師、振り付け家などの職種があります。
     例えば教師では、経験が浅い教師は声を無駄に張り上げたり、
     生徒よりたくさん踊ったり、かなりの体力を消耗してしまいます。
     これは教師が成長する過程としては大変重要なことで、
     このエネルギーは生徒にとっても決して不必要なものではないのです。
     しかし経験を積むと、人に伝えること自体に力が要らなくなってくるのではないかと思うのです。
     伝えようと思って伝わるものではないことに気が付くのかもしれません。
     そして、見つめる作業へと移行していきます。』

     そんな先生からMIKIKOさんが受け取った言葉が『MIKIKOの振付にはスタイルがある』というものだった。
     MIKIKOさんは何よりもうれしかったという。
     自分の演出のためのネタ帳に『スタイルのある演出振付家になる!!』という言葉をびっしりと書き留めたのはこの頃だ。
     MIKIKOさんがアクターズの講師からアミューズ専属の演出振付師への転身した想いはPerfumeの3人が一番よくわかっていたし、同じ事務所になってどれだけ3人にとって心強かったかしれない。Perfume結成前からの付き合いであるMIKIKOさんにあ~ちゃんが「先生がいないとはじまりません」とMIKIKOさんのネタ帳に書き込くらい慕われていた。
    MIKIKOさんは渡米準備のために2005年末に上京し、半年間東京にいてニューヨークに旅立つ。それからは帰国するまでPerfumeの3人に対してはビデオを日本に送付して振付を行った。

    関 「3人に振り付けを伝授するためにハンディカムで撮ったものをVHSで送ってくれて。
     マネージャーさんが気を利かせて僕に送ってくれたんですけど、部屋着姿の女性がひたすら踊ってるんですよ(笑)。」
    MIKIKO「1人づつね」
    関 「そうそう。『じゃあ、のっちやりまーす』って(笑)。どんどん夜は明けていくし。
       あー、この人がMIKIKOさんなんだーって。」 (ライゾマティクス)

     Perfumeの歌の振付だけではなくライブの演出を行うようになるのは帰国後のことだ。

     そんなMIKIKOさんやPerfumeの3人が自分達の表現のベースにあるのは歌詞の理解だ。
     歌詞の中に込められている感情やストーリーを振付としてどう視覚化するかがMIKIKOさんの表現であり、その振付をどれだけ自分達の肉体を使って観客を魅了するかが3人の表現といえる。
     PV制作の関さんも楽曲を受け取ってからテーマを決めてイメージをふくらむ。
     3者3様の受け取り方が有機的に結合して絶妙な効果を上げライブで観客を魅了するのだ。そしてライブで観客の声援に対応して曲が進化しPerfumeの圧倒的なスタイルが完成する。誰かが全体を統括しているわけではない。スタッフや観客がPerfumeに共感しPerfumeのために精力を傾けることで作り上げられる。
     その根幹となる楽曲の作詞が木の子さんからヤスタカに変わったのが2006年1月にリリースした「コンピュータシティ」からだ。
     Perfumeのあ~ちゃんがことある毎に初めて好きになった曲は「コンピュータシティ」からだと発言している。初めて学校の友達に是非聴いてほしいと言ったり、自分達のCDを買いに行ったり、学校にポスターを貼ってもらったりした曲だという。逆に言えばそれまで一度も3人は自分達の曲を身近な学校の友達に聴いてほしいと勧めたり、好きになったことがないということだ。一人でも観客を増やしたいとストリートライブでもなんでもやってきたにも関わらず、何故自分達の身近な人間に曲を紹介できなかったのか。
     「コンピュータシティ」をリリースする前に発表したPerfumeの歌はオリジナルで15曲もある。広島時代のOMAJINAI★ペロリや彼氏募集中を除いても13曲だ。そしてコンピューターシティ以前の曲は最終的にライブで歌われることもなくなるのだ。唯一「Perfume」というテーマソングと「ジェニーはご機嫌ななめ」というジューシーフルーツのカバー曲だけが歌い継がれる。広島時代の曲はテクノポップという路線と違うから歌わないというのはわかるが、それ以外は全てヤスタカが作曲した曲なのに歌われることはない。また、ヤスタカもcapsuleのファーストアルバムからヤスタカ一人で作詞作曲をやっているのに何故、プロとしての作詞の実績が何もなかった木の子さんだったのだろう。
     ヤスタカが木の子さんとアマチュアバンド『SYNC⇔SYNC』を結成することになったのは同じ専門学校の同級生で学校の課題で曲制作を行ったのが最初だ。ヤスタカは高校のとき作ったcapusleというグループのコシジマさんが金沢の地元の建築会社就職して遠距離ユニット状態で、自分の作曲したものをすぐに歌ってくれる女性ボーカルがほしかったので木の子さんと組んだというのが実態だろう。

    のっち「上京する前に、ジューシィ・フルーツさんの「ジェニーはご機嫌ななめ」っていう曲をカバーさせてもらってて、なんかそのイメージの流れで、前の、当時のマネージャーさんが、『こんな音楽やってる人いるんだけど』って、MDに録音してくれたのを聴かせてもらったりとかして」

    木の子さんのボーカルで作られた「冷蔵庫に納豆」を聞いてもらいたい。


    かしゆか「その曲を聴いたときに、全然歌が入って来なかったんですよ。何回聴いても、何回聴いても、歌が入ってこなくって」
    のっち「『れいぞーこになっとー』みたいな曲が一杯入ってて。(笑)」
    かしゆか「『れいぞうこになっとー』、右からひだりーみたいな(笑)」
    あ~ちゃん「本当にそうだった」
    のっち「分からなかった」        (RKBラジオ「チャートバスターズ」)

     3人は中学生で若かったし、テクノとか何も知らなかったからだと木の子さんを弁護してるが果たしてそうだろうか。
     曲そのものについてというより彼女達には歌詞を理解したくないという感じがする。

     賞味期限切れの恋を冷蔵庫の中の納豆に例える。恋人と別れて一人では多すぎる食材がいつのまにか冷蔵庫にあふれていく。見たくもないし、触れたくもない、即物的な生活を歌詞にしている。冷蔵庫の微かな音しか聴こえない孤独な女の生活が腐乱していく。人は自分を守るためにそうした異物や光景を無意識に避けようとする。私もビニール袋に2重に包んで大至急2、3ブロック先のゴミ収集場に行ってでも捨てたくなる。かしゆかが何回聴いても、歌が入ってこないという気持ちはわかる。こういう歌詞を書いた人を私は知らないし、確かに異能だと思う。純文学ネタかもしれないが、私は読みたいという気にならない。
     インディーズデビューする前のPerfumeの持ち歌は4曲しかなく、その中で「ジェニーはご機嫌ななめ」の路線に絞ってテクノ系で近未来というコンセプトをアミューズ側で立てたと思われる。この方針には3人も納得している。ただ、テクノ路線であれば中田ヤスタカ作詞でよかった筈だ。ヤスタカ作詞の「恋の花」や「東京喫茶」を3人に聞かせていれば、一発で彼女達の心に届いたに違いない。木の子さんが作った歌詞に対して3人は手厳い。

    あ~ちゃん「意味のわかんない歌詞だったりとか、英語が一杯あったりとかして結構、モノをだしてきて、それを例えたりとか、直接的な言い方がないよね」
    のっち「自分のあったことしか歌詞に書かないとか」
    のっち「自分の思っている気持ちが、ありがとう、ありがとうという言葉がたくさんでてきて、それを伝えたい、と思いながら歌うというのは、あまりなかった」

    「だって人間って自己中心的に考えるじゃないですか」と木の子さんが言い、自己の体験ベースの歌詞であることを隠さない。ファンデーションに代表されるションションメロディーは比較的木の子さんの肉声が素直に出た歌詞だがその分人によっては嫌う人もいる。Perfumeの3人は自分達の想いをのせられる歌詞に飢えていた。ライブで歌える曲を作ってと「Perfume」のテーマソングを木の子さんに依頼した。具体的にこの言葉を使ってくださいと彼女達の想いを渡した。ヤスタカから受け取った曲から好きな曲を選んでパズルのように言葉をはめ込むのが自分の作詞だと木の子さんはいう。「Perfume」は木の子さんの歌詞の中では初めて3人のために作った歌で私も好きな歌だ。香水の時間経過を人との出会いと別れに例える。歌詞の言葉を以下のように置き換えて読んだ方がわかりやすいかもしれない。

    トップノート(最初の香り=あなたとの出会い)
    ミドルノート(なじむ香り=夢の途中)
    ラストノート(残り香=思い出)

     トップノートは照れ臭いけど ミドルノートはいつもありがとう
     ラストノートは涙止まらず 歌える今日を抱きしめる

     トップノートに出会えた奇跡 ミドルノートを忘れないでね
     ラストノート消えない想い 私のここが 居場所なの

     アミューズは有望なアーティストの発掘と共にその育成、マネージメントが重要なポイントであり、広範囲のコンテンツやクリエーターを確保する必要があった。また、CDの売り上げに依存しないライブで人が呼べるアーティストを育成するために、できるだけ早く単独ライブができるくらいの楽曲をそろえる必要があった。木の子さんが自虐的『SYNC⇔SYNC』というユニットの特色として楽曲制作の早さがあり、それは当時業界内でも認められていたらしい。早くて安いのが取り柄のユニットはPerfumeの楽曲を2004年には9曲、2003年まであわせると12曲発表している。J-POPという日本の歌謡曲では分業体制が確立していて、作曲や作詞単位に協会や団体があり危篤権益を守る仕組みができている。夫々のパートを受け持つ人の食い扶持を守るための分業体制で楽曲が生産されていた。アミューズとしてはヤスタカに作曲に専念することで曲を量産してもらいたいという思惑もあったのではないか。そうした諸々の理由がアミューズからヤマハ経由で『SYNC⇔SYNC』というユニットに依頼がきたのだと思う。ヤスタカ依頼を受けた時には木の子さんが作詞することは決定事項だった。
     ただ、木の子さんの作詞の契約は2003年4月から2005年の3月までの2年契約で更新されなかったのではと思われる。メジャーデビューするにあたって作詞者を変えるのが条件の一つだったのかもしれない。2005年3月までに発表されている木の子さんの作詞は全て終わっているからだ。もっとわかりやすい歌詞でないと売れないと徳間サイドが判断したと思われる。

     ヤスタカがデビューした頃は自分の曲を編曲したいと言っても専門家に任せればいいと周りの大人達からたしなめられる。デビューアルバムの「ハイカラガール」でラジオに出たりといった普通のプロモーションが失敗したこともあり自分の思うようには曲を作るには説得材料に欠けていた。ヤスタカに求められていたのはメロディーメーカーとして曲作りに専念し作曲に徹することだ。そうした空気の中でヤスタカはNoと言い続けcapsuleの音楽スタイルにこだわり続けた。生意気な若造という意識を一つ一つ結果を出して粘り強く交渉し、自分の制作環境を築き上げてきたのだ。自分の楽曲制作環境を作るためにはタフなネゴシエーターとして働いた。それが木の子さんからヤスタカは職人というよりビジネスマンだと思われる要因になったのかもしれない。

     ヤスタカ「最初の頃は、超ネコ被ってたからな。誰のために曲を作ってたかっていったら、身近な大人のためっていう感じが確かにあった。だから、そこに向けて作っている感じだったんですよ。今だから言えるんですけど、プロっぽくしようとしてたかもしれない。だから楽しくなくて、やっぱり。高校の頃とかは好きな事やってるじゃないですか。それがいろんな大人から声がかかるようになってきて。でもその中でcapusuleって話なのか、俺一人なのかっていろいろあって。で、本当に一歩違ったら全然違うことしてたかもしれなくて。正直、作家としての話が多かったんですよ、昔は。で、人の言うことを聞くのがメジャーデビューって思ってたから。今まで、スタッフがいなくて自分達だけで考えてやってたような感じだったから、他にも考える人が出た時には自分は何も言わない方がいいんじゃないかって初めは思っていて、でも楽しくはないなと思ったんです。(中略)
     18、19くらいのとき、いろいろやってましたよ。それ以外にも、いろんなところから『作家として契約しないか』って話がくるんですけど、俺はcapsuleやりたかったんです。それで粘ってたんです」(MARQUE Vol.64)

     「ハイカラ・ガール」リリースから1年半後の2003年に「CUTIE CINEMA REPLAY」をヤスタカは自宅の録音環境で制作する。それまでデモテープを作り続けたが却下される状態が続いていた。それでも自前の制作環境にこだわり続けた。売上が上がらず現実家のコシジマさんは気が気ではなかったという。その後、スタジオジブリと『ポータブル空港』、『space station NO.9』『空飛ぶ都市計画』SF3部作を作成し(ジブリとコラボできて親孝行ができたとコシジマさんは喜んでいる)、2005年のアルバム「NEXUS-2060」まで仮想現実を映画のように演じ続けた。現実とはちょっとかけ離れた世界を演じるのはコシジマさんも楽しかったという。ヤスタカも頭を丸坊主にしたりオシャレな渋谷系のラウンジミュージックを演じ続けcapsuleというイメージを一旦確立した。そんなcapsuleの当時の状況を2004年にピチカートファイブの小西氏と対談から抜粋する。

    ヤスタカ「僕は60年代にあったものを別の違う物にしていきたいと思ってました。スタイルは欲しいんですけど、精神的なもので音楽をやろうと思っていなかったし、主張したいわけじゃないから、「世の中こうだからこうだよね」みたいな歌詞は出てこないんです。
     高校生の頃とか、そんなに音楽聴かなかったんで、例えばピチカート・ファイブも曲の事まで知らないんですよ。なんですけど雑誌はよく見てたから、「あ、羨ましい人がいる」ってずっと思ってました。それまで僕は、ミュージシャンというものをあまりいいって思ってなかったんですよ。僕のいいって思うミュージシャン像って、もっと出方・活動の仕方というか、何やってるかというのを明確に出せる人だから」

    小西「僕はカプセルを聴いてすごく感じたけど、ずばりヤマハっぽいと思った。僕、最初の音楽体験がヤマハの音楽教室だし、作曲のために使っているピアノもヤマハなのね。ヤマハって日本の音楽教育を変えた。ある一つの企業が、そこまで、いわゆる教育としての音楽を変えるってすごいことじゃない?そういう意味じゃ日本の音楽をやっている人の何割かは、強烈にヤマハという、ある一つの会社に洗脳されているです。で、カプセルの音楽にそれを感じた。言ってる和物と違うかもしれないけど、ある時期、歌謡曲以上にニューミュージックみたいなものって日本でしか聴けない音楽だったわけじゃないですか。そういうものに近い、コード進行とか整合性とかね。そういうおしゃれさがエイティーズっぽく感じる。和物ってもっと無理のあるコード進行じゃない?無理な解決とかするじゃない?僕に言わせると中田君の音楽は作曲のセンスはすごくいいと思う。アレンジはね、ちょっと懲りすぎてるかも」(MARQUE Vol.46)

     ヤスタカは「L.D.K. Lounge Designers Killer」で「NEXUS-2060」で一旦作り上げたイメージを壊し始め、2006年の「FRUITS CLiPPER」で明確にエレクトロに舵を切る。コシジマさんによれば「結成の頃もしくはcapsule以前の中田君に戻った」と言う。

     ヤスタカは「オレ、すげー!」というのが高校の頃の口癖だった。金髪に染め生意気な音楽好きの金沢の高校生だった。その頃、コシジマさんは音楽をやってたら男にモテるかもと音楽好きの人間がタムロするファミレスでだべっていてヤスタカと出会った。最初は無視されたらしい。ヤスタカも自分でボーカルをやって歌ったりしたが全く相手にされず無視された。自分が女性だったら、そのままシンガーソングライターでやっていただろうとヤスタカは言う。
    ヤスタカ「そのときの流行はジュディマリとかで、要は、女の子が元気よいヴォーカルしかいなかったんですよ。そういうなかでコシジマさんだけ、フォーマットが違ったわけですよ、歌の。変わった声がほしかったのは確かだから、そこはものすごい合って、それで、要は周りがみんな似てたんですよ。カラオケに行ってるのと変わらない感じに聴こえていて、カラオケを感じないヴォーカル、プロのレベルじゃないけど、そのレベルでやりたかったんですよ。だからやってくれるかなーと思って」
     結局、コシジマさんは地元の建設会社に就職し、ヤスタカは上京して専門学校に通いながら遠距離ユニットを組むことになる。デビューするために大量にデモテープを作らざるを得ず大変だったがヤマハの力を借りてなんとかしたらしい。遠距離ユニットだったが遠距離恋愛ではない不思議な関係だった。
     コシジマさんは「”恋の花”があったからこのユニットをやろうと決心した。『ハイカラガール』に入っている”恋の花”は中田君がそのときの自分の気持ちを察して書いてくれたかもしれない」とか言う。



     ヤスタカとコシジマさんはお互いわかりあっていたわけではないし『わかりあえない』というのが正直なところだろう。それでも何も不都合はなかった。ヤスタカはコシジマさんのヴォーカルがほしかったし、コシジマさんは自分の好奇心が満たせる場所がほしかっただけだ。
     発表はコンピュータシティより後だが、最初にPerfumeに提供した曲「wonder2」はひょっとするとコシジマさんとの関係を歌ったのかもしれない。

     つまらないって顔して いつも目を合わさない
     何か少しほめると ハニカミ笑いのキミ
     二人並んで歩くの 肩と肩触れるとき
     体温が伝わるの それだけでも幸せ
     色んな人と笑ったり泣いたり 語り合ったりするけど
     キミだけはほかと何かが違う 不思議な存在なんだよ
     好きとか言葉はないけど つながりあえてる二人のハアト
     つつんで ゆらゆら wonder2
     あの日止まった時計が また動き始めたら
     幸せな物語 永遠だよwonder2         (wonder2)

     この曲でPerfumeの3人の心をヤスタカは一瞬でつかんでしまう。

     高校の頃の音楽友達に今も同じ業界で活躍している親友のnishi-kenがいる。
     ヤスタカが2007年に個人事務所の引っ越した時のnishi-kenブログだ。

    「お引越し完了~!!
     とうとうヤスタカっちスタジオ持ちましたよ!!
     完全にオフィス&スタジオ。。。
     何か俺らが高校生の時に、二人で打ち込みしてる光景がぶわっと思い出されました。
     あん時はこれはこうだ!こうしたらすげぇ~なんて遊びまじりで打ち込みの話ばっかしてて
     あれから10何年経って、今はこんな現状に変わっていて。。。
     何かいろいろ思い出してジ~ンときたですよwww
     俺もスタジオ作るために頑張るぞ~~!!!!!」(nishi-ken)
     それから最近の話題。
    「去年かな?ラーメンショー行ったのは。ヤスタカと手分けして並んで7種類(小盛り皿で7杯)は食べたはず。単純にラーメン3~4杯分くらいが食えちゃう恐ろしさ感。環境って凄い(笑)」(nishi-ken)
     ディズニーランドにもヤスタカとnishi-kenはきゃりーぱみゅぱみゅに連れられて行ったらしい。30過ぎのオッサン二人が二十歳の女の子に先導されて後をダベリながら歩いていく構図が微笑ましい。

     何年、会ってなくても、会った瞬間に昔に戻れる関係というものがある。何故か、会った瞬間に「ヨッ」と昔の挨拶が出る。別にお互いどういう生活をしてきたのかわからないし、相手が自分のことをわかっているとは思わない。ただ、ある時期、同じ方向を向いていたことだけは確かだった関係。学校の部活だったり、音楽だったり、映画だったり何か目的を共有する時間を持っていた関係というものがある。その目的に対する考え方や感じ方は違うかもしれない。でも「あの時のスゴカッタよなー」というだけで通じてしまう。
     最後のときが絶対来ないなんて誰も言えない、多分来るだろう。その時はそいつの死に水だけはとることになるだろうと漠然と思ったりする。
     ヤスタカの歌詞にはそうした分かり合えなくったっていい、いてくれるだけでいい関係があるし、そういう関係性の中で自分は生きているんだという想いが歌詞に反映されているのではないか。
     ヤスタカにとって歌詞は作曲の一部で作詞に苦しむことはないという。作曲は自分の中で出来上がったイメージを落とし込んでいく作業に過ぎないらしい。2006年にリリースされたSF3部作(コンピュータシティ、エレクトロワールド)もスタジオジブリのSF3部作の裏返しの意味を持つ。ジブリと築き上げた未来社会が壊れ始め崩れ去るイメージが描かれる。ただ、そこに崩壊に伴う悲壮さはない。あるのは解き放たれる開放感だ。自分のこれまでの作曲でやってきたように、未来社会もまた作り直せばいいではないかと挑発する。
     ヤスタカとPerfumeのスタッフ、そして3人はいつのまにか同じ方向を向いてPerfumerというフィールドに立っていたのではないだろうか。同じ目的を共有する仲間、お互いの考え方や感情は違ったとしても、言葉を交わさなくとも、信じあえる仲間。



     スタッフの熱意でメジャーデビューしたとしても、売上が上がらなければ約束通り3枚で打ち切りになる筈だった。ただ、Perfumeの場合、他のアイドルグループとは売上の推移が違っていた。通常であれば、アイドルファンが購入する初回で売り上げは打ち止めとなり売上が殆ど伸びない。ところがリニアモーターガールの売上は初回こそ1183枚だが、次週も500枚前後売れ続けている。オリコンの累計は200位以内に入らないと累計されないため全体の販売数量はわからないが年末までに5000枚を超える売上を記録する。この頃は秋葉のヲタ達が買い支えてくれたのではないだろうか。秋葉の女王モモーイに協力してくれたモモイスト達のお返しかもしれない。

    2005/9/21 メジャー1stシングル「リニアモーターガール」発売。
    集計日 順位 売上 累計
    2005/10/03付 99位 1188 1188
    2005/10/10付 153位 567 1755
    2005/10/17付 (圏外)
    2005/10/24付 159位 471 2226
    2005/10/31付 190位 404 2630
    2005/11/07付 (圏外)

     次のコンピュータシティも同様な動きをしておりCDの売上はリニアモーターガールを上回っている。

    2006/1/11 メジャー2stシングル「コンピューターシティ」発売。
    集計日 順位 売上 累計
    2006/1/23付 45位 1853 1853
    2006/1/30付 117位 692 2545
    2006/2/06付 190位 468 3013
    2006/2/13付 193位 409 3422
    2006/2/20付 183位 419 3841

     メジャーの契約更改の目安が5000枚と言われている。リニアモーターガールだけで、徳間の想定CD販売枚数を超えたと思われる。2005年の決算を終えた後の販売予定では2006年度の販売予定が決まり、当初の3枚で終了という課題はクリアできていた。だから2006年度つまり2007年3月までのCD販売のロードマップは2006年4月頃にはできていた。ただ、徳間としては単価と数量が上げるアルバムの販売枚数の課題をクリアして長期契約できるかをみるために2006年度にアルバム発売が予定されたと思われる。アミューズとしてリスクを下げるため低予算で作成できるベスト盤に近い形でのアルバム制作を選択した。2007年4月以降Perfumeが存続できるかはアルバムの売上次第でどうなるかわからなかった。3人が大学進学についてマネージャー相談した時に大学進学を勧められたのも無理はない。

     BOYSTYLE 2005年に川田が脱退後目立つ活動は無く解散状態のまま2007年7月末をもって解散。Buzy(ビズィー、2002年 - 2006年)は、アミューズのエース「ポルノグラフィティ」のプロデューサーを手掛ける本間昭光を投入し新藤晴一作詞の「鯨」等すぐれた楽曲を提供し続けたにも関わらず2006年6月末に解散。
    2003年に広島から出てきて寮生活を始めた時のBee-hiveのメンバーはPerfumeだけが唯一残った。アミューズの上層部は経費がかかるだけのPerfumeの解散を一度決定していたが、徳間レコードとのCD発売の契約が残っていたため保留状態のまま活動が継続された。

    「Perfume~Complete Best~」が初回限定盤しか発売しないとわかった時、宇多丸がこれで解散なのかとPerfumeの3人を心配して聞いたのも頷ける。
    2006年は活動のエリアやジャンルを秋葉原のアイドルから新宿ロフト等のライブの活動範囲を広げロックやテクノのミュージシャン達や観客の心をつかみ始めていた。
    Perfumeの楽曲の良さが口コミで広がっていた。2006年のイベントではPerfumeさんが出られるのならとわざわざPerfume専用のワクまで作ってくれるイベント屋もいたという。

    2007/1/11 メジャー1stアルバム「Perfume~Complete Best~」初回限定盤発売。
    集計日 順位 売上 累計
    2006/8/14付 66位 3530 3530
    2006/8/21付 129位 1497 5027
    2006/8/28付 245位 841 5868
    2006/9/04付 80位 804 6672

     初動こそ、66位3530枚だったが、その後も着実に売上を伸ばし初回限定盤1万枚を年内に売り切り、翌年2月に急遽通常盤を発売することになる。
     この年、原宿アストロホールで『Perfume presents「~Perfumeがいっぱいサンタ呼んじゃいました♪~」』を開催した。サンタさんといいながら、ハコを押さえられなかったため12月21日のライブとなり3人は悔しがっていた。それが7年後に東京ドームでクリスマスライブをやることになるとは予想だにしていなかっただろう。
     翌年2007年はPerfumeブレイクの年となる。

    2013.12.01 | コメント(6) | トラックバック(0) | Perfume

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