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    当世Perfumeファン気質 その1

     冬の日の朝、ペテルブルクの下級官吏のようにコートを着込みSAT氏は立っていた。
     SAT氏の名誉のために言っておくがコートのスソが煤けているような貧相ななりでは決してない。パッツンの前髪と少し濃い顔立ちにモコモコとしたダッフルコート、暑苦しいマフラーをコートに突っ込んでいるのが少しダサいだけだ。ドストエフスキーが描くように家に帰れば口五月蝿い子供とヒステリックなカミさんがいて、直接家にも帰れず、毎日酒の力を借り、自説を繰り広げ、飲んだくれて酒場からつまみ出されるような醜態を繰り返しているわけでは決してない。泥酔状態で帰ったりしたら奥さんから家から閉め出され、100年ぶりの大雪が埼玉に降り積もり凍死するかもしれないのだ。
     SAT氏は凍える朝にコートのポケットに手を突っ込んで息子のHiroが家から出てくるのを待っていた。子供を代々木にある英語塾まで送り迎えする職務を妻のアヤノから申し付けられ、従順にその職務を遂行しようとする父の姿がそこにあった。ロクに外出の準備をしようともせず、うだうだしている息子を、「あっ、そうだ」とか言って首にマフラーをかけたり、思いつくままにせわしなく息子の身だしなみに余念がないだろう妻に対してムカついているわけではない。毎度のことなのに寒風の中、早目に出てしまった自分の従順さを呪っているのだ。
     何故、母になってしまった女という生き物はここまで息子の身支度にこだわるのか、手袋やマフラーなんてしなくてもいいじゃないか、その内、ウザイと息子に言われ無視されることになるだけなのに、小学5年生の息子が玄関のドアを開けるのをSAT氏は見つめていた。

     息子が家を出るのを見送ったアヤノの手がゆっくりと頭上に持ち上がった。鶴がクビをもたげてじっと遠くを見やるように静止した。片足をゆっくり上げてバランスをとる。ひそやかな笑みがアヤノの顔を覆った。昨日届いたばかりの東方神起のライブDVDをゆっくりと開ける儀式が、この後、待っているのだ。

     ノロノロと玄関から出てきた息子にSAT氏は乗れと身振りで示し、車の助手席に乗ったのを見てキーを入れた。

    uvs140309-001.jpg

     大音響でPerfumeの「edge」が流れる。SAT氏は大慌てでCDを止めようとするが止まらない。心拍数がリミッターに張り付く。少し震え制御がきかない左手でガチャガチャやり、やっとのことで音を止める。

     だれだっていつかは死んでしまうでしょ
     だったらそのまえにわたしの
     いちばん固くて尖った部分を
     ぶつけて see new world

     息子のHiroはマフラーと手袋を脱ぎ、フーッと溜息をついた。
    「Perfume聞きたいなら、流しててもいいよ」

     SAT氏は動悸をおさえ、少し咳払いをしながら車を発信させた。
     なんで息子は「edge」がPerfumeの曲だとわかったのだ。一般の人はPerfumeの曲だと気づく筈がないのに。息子のHiroがもぞもぞPerfumeのアルバムのケースを座席の下から何枚も取り出して眺めていた。SAT氏は恥辱を覚えた小学生のようにケースをむしりとって急いで収納ボックスに格納する。
     SAT氏はPerfumeというアイドルグループのファンクラブに加入している。Perfume関係の郵便物が家に届かないように、友達の住所を借りて秘密裏に行動してきた。動画や情報を見る時も自宅では見ずに近所のインターネットカフェに引きこもって見ている。少なくとも彼がファンだとか気づかれるような失態は犯していない筈だった。妻に話せば住宅ローンや教育費とかの話まで発展し、面倒臭くなるのは目に見えているし、K-POPアイドルの東方神起に走る妻と同列に見られたくないという、変な見栄や意地があった。音楽的にとか、ダンスの切れがとか、なんとか理屈をつけて彼なりの防衛線を張っていた。どちらにしても家庭の平和とは小さな嘘の積み重ねの上に構築されているのだ。Perfumeのライブを見るために有給をとるなんて口が裂けても言えない。だからライブに行く時は必ず背広姿で家を出る。

     息子のHiroはいつのまにか青いメタル色のPSPを取り出し、バカデカイ斧を振り回し恐竜を狩っている、「カタッ、カテーェ」、思ったよりカタいらしい、それでも執拗に右に左に斧をふるい、血しぶきを上げて恐竜が倒れる、食料にするため恐竜を切り裂く、モンハンというゲームによってもたらされる暫しの平和。

     スカイツリーの点景を正面に追いながら国道4号沿いにプリウスを走らせる。荒川の橋を渡る。真正面に日差しを浴びながら、冬の凍てついた空に鳥達が流れさる。もう北千住で首都高の標識が見える。代々木はもうすぐだ。

     ジョン・レノンが殺された1980年にデビューしたアイドルの天才、松田聖子が半年もたたない内に紅白出場まで昇りつめた時代も、小学生の彼にとってテレビの中の出来事でしかなかった。ロッキング・オンを斜め読みし、渋谷陽一の言をありがたがる普通の中高生時代を彼は送った。爆風スランプのCD買い、鏡の中で前髪を気にするミーハーで健全な青少年だった。その頃は、まさか自分がアイドルを好きになるとは思いもしなかった。40を過ぎ、建売の一戸建てを購入し、仕事的にも自分の上限が見え始めた頃、彼はPerfumeに出会った。きっかけはYouTubeのPerfumeの映像と音楽だ。彼の中のアイドルという概念を覆す音楽と映像、ただひたすらカッコいい。何に惹かれたのか、説明しようとすればする程、言葉がむなしくなる。
     ただ、そんな彼も東方神起にのめりこみ、海外公演まで行く妻のアヤノを理解できない。韓国では30歳までに2年間兵役に就く義務があり、もうじき兵役につくメンバーをずっと見ておきたいという妻の気持ちがわからないでもないが、息子をまきこんでの台湾や韓国に連れていく妻に少しいらついている自分がいる。春から始める国内ツアーはチケットさえ取れれば全部出席するのではと危惧している。徴兵制度がない時代に生まれ育った彼には男子であれば兵役につかざるを得ないヒロイズムと見送る側の女性の気持ちをうまく理解できない。朝鮮の不幸は4、5百年に一回の割合で侵略する日本が隣国にあることではなく、中国という巨大な国と陸続きであるために、常に中国の動向で左右されてきたことだと頭では理解できる。北朝鮮という存在そのものが中国に隣接してある国の実存する不幸の象徴だとは思うが、そこに思い入れはできない。彼と彼女の間にできた不確かで得体のしれない歪を持った日常が、時として彼をPerfumeへとかりたてるのかもしれない。

     どれほど長くいっしょにいても
     人は人を理解しない
     ひとりひとりの道が出会うことはない
     それなのにひそやかな音楽がそこに行き交う
     人間であることのくるしみをくるしみとしても
     くるしみがそのままでそこからの解放でもあるような音楽
     その音楽はこの身体に覆われ密やかに息づいている
     なにもかがこの身体を透して音楽している
                          (高橋悠治)

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    2014.03.09 | コメント(0) | トラックバック(0) | Perfume

    Perfume研究7 エピローグ

     Perfumeの動画を見てると、斜め後ろから息子が顔を出し「また、Perfumeかよ、何、暇してんだ!」と言われたので「暇じゃねえよ、Perfumeの研究してんだよ」と言ってしまった。

    「Perfume研究?」

     Perfume研究をやるとしても、私には音楽やダンスに対する素養も知識もない。40年前に高校の文化祭でG、Am、Cの3コードぐらいしか知らないのにギターをかきならし、お前らの高校生活なんて、そんなもんかよとアジって歌ったら、ヤめろ、引っ込めとブーイングを浴び、ビンやトイレットペーパーを投げられながら6分近く歌ったのが人前で音楽をやった最初で最後の経験だ。人前でやるだけの才能がなにのだからしょうがない。大学時代に友達のバンドと北海道ツアーを回ったりさせてもらったが、今や音楽となんの関わりあいもない。
     まあ、とにかくPerfumeチームのストーリーという切り口でやってみようとPerfumeの年表を作ることから始めた。何時何処に何をしたか黒猫さん等のPerfume古参のブロガーさん情報をあさりイベントを書き出していく。最初は売れる前の彼女たちのスケジュール帳のように真っ白だ。それでも一ヶ月に一回くらいは何かしらイベントがあり、キャンペーンから雑誌掲載履歴などわかる限りネットで検索し埋めていく。そして必要に応じて本や雑誌をAmazonでとりよせる。同じ事を中田ヤスタカやMIKIKOさんに対してやり平行して年表を作り上げる。MIKIKOさんが3人と出会った時は21才だったとか、その時代背景とかも書き込む、CDシングル、アルバム、DVDのこれまでのオリコンの売上推移を洗い出す。アミューズの企業レポートなども読み込み。そこから浮かび上がってくるテーマを決める。何故、中田ヤスタカはPerfumeの楽曲を手掛けることになったか、アイドルって何?、疑問に考察を加えて記事になり得るか判断して書いていった。Perfumeがアイドルとしての分岐点となった2009年から語り出した。書いてみると結構評判がよく、彼女達の生まれる前の中田ヤスタカから始めて順に年代を上げていくことにした。

     Perfume研究1 人間だもん 2009年
     
     Perfume研究2 中田ヤスタカ 1980年~2003年

     Perfume研究3 アイドル 2000年~2004年

     Perfume研究4 裏切りの季節 2005年

     Perfume研究5 圧倒的なスタイル 2006年

     Perfume研究6 ブレイク 2007年

     2008年はPerfumeにとってファンクラブ(P.T.A.)開始、ミュージックステーション、笑っていいとも等のTV出演、アルバム「GAME」でオリコン1位を獲得、7thシングル「love the world」1位、「GAME」全国ツアー開催、武道館ライブ、紅白歌合戦出場と一気にアイドルとして昇りつめた1年だった。
     2009年はテレビ出演に忙しく武道館ライブからライブができない日々が続いた。3月からあ~ちゃんのブログの更新がとまり、精神的な不安の噂が流れ、6月の「フライデー」によるのっち、かしゆかの立て続けにスキャンダル記事が出て、ROCK IN JAPAN vol.353のインタビューのライブができない苦しさを訴える記事が掲載され、Perfumeファンは重苦しい雰囲気で7月8日の『⊿』(トライアングル)発売を待っていた。
     Perfumeはブレイクしてからアイドルとして社会的に認知され、様々な価値観の風評にさらされてきた。口パクだから駄目だとか、声が加工されて変だとか。2008年に環境が激変し、翻弄され自分達が何をしたいのか、何ができるのか、何を求められているのかについて迷いが生じた年だったのでないか。そのことについて書いてみた。

     Perfumeに欠かせないものに中田ヤスタカの楽曲がある。中田ヤスタカはどうやってPerfumeに出会ったのか。
     BOφWY、GLAY、JUDY AND MARYを手掛け今年1月亡くなられた佐久間正英氏がこう述べている。
    「10年ほど前まで一枚のアルバムを作るには1200~1500万の予算がかかった、今の世代の方からは「バブル!」と一蹴されるかも知れないがそれは違う。(佐久間氏はプロデューサーとして印税契約のため氏のギャラは制作費に入っていない)(中略)内訳はスタジオ代、エンジニア代、レンタル機材費、外部ミュージシャンを頼んだ場合のギャランティやアレンジ料等、プラス雑費。実際の商品にするにはこれプラス・マスタリング代、その後のプレスやジャケットにまつわる経費、宣伝費なども加わってくる。この予算が抑えられると言うことは何かを削る事にしかならない。そしてその”何か”とは無駄を押さえることギャラやスタジオ代の交渉に留まらず、残念ながら『音楽の質』を落とすことになる。(中略)最近興味と楽しみのためにインディーズ(と言ってもほぼ自主制作)のレコーディングのプロデュースをしたりしている。アルバム制作費で言えば例えば60万程だったりする。彼らにとっての60万は大金だ。ライブ会場で1500円で販売して400枚売ってやっとリクープだ。それでも僕に依頼して来るのは大変な決意・熱意なのだと思う。こちらも長年の経験があるプロなのでその予算でと言われれば不可能では無い方策で関わる」
     1998年をピーク(売上6000億)CD業界は下降線を辿り続け今やその3分の1の売上に過ぎない。既にCDというメディアがレコードと同じようにその役割を終えようとしているのだ。DVDの売上がCDの売上の半分に迫り追い抜かれるのも間もないだろう。そして舞台に生バンドが登場することのないアイドルの楽曲に生バンドの演奏は必要ないのだ。中田ヤスタカ達が始めたDTPによるアルバム制作という電子音楽の中で完結する楽曲は時代の必然だといえる。Perfumeと中田ヤスタカの出会いも時代の必然だったのではないのかという視点で書いてみた。

    Sales_Value1.png

     Perfumeは紛れもなくアイドルとして社会的に認知される存在だった。今や将来なりたい職業の一つとしてアイドルは分類されている。私はアイドルに関する本を5、6冊買い込みネットを漁りアイドルについて調べていった。調べる前はアイドルというジャンルにこれ程多種多様の才能が集まり物語を作り上げているとは思っていなかった。パフォーマーとしてのアイドル達だけではない、作詞、作曲、振付、映像、演出、メイク、トレーナー、事務所のマネージャー、レコード会社そしてヲタクを筆頭とする観客達が集結しアイドルを作り上げている。これほど広く深くアイドルという地層が存在するとは思いもしなかった。乃木坂46という設立当初からレコード会社が金をかけてデビューできたアイドルグループと比較しながらPerfumeを語ってみたものの、到底語り切れぬものを感じた。毎年400人もの歌手やグループが生まれ消えていく世界で、消えていった者達の思いを夢を託されたものとしてRIJでDream Fighterを歌うPerfumeを語ったが、その消えていった者達やPerfumeを初期の頃から支え続けたヲタク達の熱意を何一つ語れていなかったと思う。そこにある無数の物語を語るには紙数も足りなかった。
     地下アイドルという世界がある。AKBのような事務所のオーディションに何度も応募しても採用されずライブ中心の活動を続けるアイドル達だ。アイドル達の夢の見返りとしてのギャラはあまりも少ない。月に数万というレベルのギャラで生活していかざるを得ない。田舎から出てきた子達はアパートも借りれないため事務所の六畳程度の屋根裏部屋を間借りして4、5人で共同生活をしている。ファンデーションの代わりに小麦粉を使い、マッチ棒の消炭でアイラインを引いて化粧する彼女達。そんなマッチ箱にすら他の人に間違って使われないようにマジックで自分の名前が書きこまれている。ご版のおかずは塩をふりかけるだけ、特別に栄養をつけたい時は自分の名前をマジックで書いた自分用の卵子を割り、卵かけご飯を食べる。毎日のライブにくるお客の人気投票や握手会を交えた物販の売上でギャラも待遇も変わる。どうやったらお客さんの気持ちをつかめれるかいつも考えてると人気投票で最下位だった女の子が浴槽をスポンジでこすりながら言う。風呂掃除は人気が無いものの役目だ。
     そんな彼女達を支え続けるのはヲタクと呼ばれるファン達だ。毎日ライブに通いオタゲーでアイドル達と一体となり応援するだけではない。彼女達がライブが終え帰宅する彼女達を「お疲れ様、お休みなさい」と声をかけるためだけに出待ちしている。今の時間だと歩いて帰るしかないだろうとか心配している。送っていかないのかと尋ねるとそれ以上は踏み込んでいけないアイドルとファンの間のラインがある。自分達にできるのは彼女達を見守ってあげるだけなのだという。何故そこまでして応援しているのかと聞くと自分達は勉強とかいろんなことをやり遂げることができなくて生きてきた。その達成できなかったものが彼女達の夢を応援することで少しでも一緒に形にできればと思っているからだという。武道館や紅白歌合戦なんて夢のまた夢なのだ。
     アイドルを支えるスタッフにも多様な才能がひしめいている。そんな才能の中にヒャダインこと前山田 健一がいる。ももクロのテーマソング「怪盗少女」や「Z伝説 〜終わりなき革命〜」の作詞作曲をした人だ。彼は京大を卒業した後、安全地帯等の作詞として知られる松井五郎に弟子入りしている。彼は彼女達にの生活に踏み込んでストーリーをつむぎ出し楽曲を提供する。あかりんというももクロの精神的な支柱だったメンバーの脱退に対して「あかりんへ贈る歌」を作るためにメンバー一人一人のあかりんへの思いを聴き歌詞にしていく、レコーディングであかりんに贈る言葉を涙が出て言えないメンバーを励ましじっと待つ。紅白歌合戦が開かれるNHKホールの前の代々木の路上でストリートライブから始めた彼女達はいつか一緒に紅白に出ることがあかりんとみんなの夢だった。彼はももクロ達を戦友と呼ぶ。ももクロが紅白に出場が決まった時にそのことを語ろうとしてラジオでうまく言葉がでてこない涙が出て止まらなくなったのだ。
     彼は作曲する時にヲタク達の掛け声を入ることまで想定して作曲する。UNDER17という桃井はることユニットを組んだ小池雅也がプロデューサーしたでんぱ組.incのというアイドルグループがある。ヒャダインは「W.W.D」でメンバーの女の子達一人一人に自分とは一体何なのかを掘り下げてもらい実話に基づいた「でんぱ組.inc」という一幕の芝居のように曲を作った。
     一人一人が自分に何があるのか、何者なのかを掘り下げライブで語る。結局、自分には結局、何もないんだということ、何者でもないことに気付く、その過程と関わってきた友達や家族への感謝を述べ、自分がいてもいい場所はここしかなかったんだとWWDの曲がスタートする。



     「裏切りの季節」は黒歴史と言われた「アキハバラブ」がPerfumeにとってどういう存在だったのかを問いたかった。Perfumeの3人にとってインディーズデビューからコンピュータシティーに出会うまでがむしろ黒歴史だったのではなかったか。初めてありがとうという気持ちをのせて歌える音楽に出会ったとアキハバラブに対しては好意的でアニメの声優をやったり、秋葉原のヲタ達の声援を受けて踊り歌うことは彼女達にとって新鮮だった。
     それに対しあ~ちゃんがきのこさんが歌う「冷蔵庫に納豆」の楽曲を聞き、ヤスタカの自宅件スタジオに踏み込んだ時の感想をこう述べている。

    あ~ちゃん「なんか、ピコピコ、ゲームみたいな・・・。なんかちょっと・・・ちゃちい音だなーって思ってました。やっぱり、『デビューするから、お金とかかけてもらうのはこれからなんだ』・・・。こういう音を知らなかったんで」

    --「バンドでやるんじゃなくて、ちょっとこう、経費削減じゃないけど、そんなイメージもあったんだ、打ち込みに対して」

    あ~ちゃん「そうです。これはもう頑張れって事だと思って、受け止めて頑張ってましたけど。」

     2004年の夏、渋谷O-EastでPerfumeはUNDER17で歌う桃井はる子と共演した。2005年にアキハバラブの楽曲の提供を受け、2006年初めまで桃井はるこのライブに呼んでもらったり支援を受け続けた。 
     当初の3枚までというレコード会社の思惑をひっくり返し2007年の3月までCDを出すことロードマップを描けたのはリニアモータガールのCD買い支えてくれた桃井はるこを筆頭とするヲタクというファンの存在だと思う。

     Perfumeはある意味、地方の恵まれたエリートアイドルだったと思う。アクターズスクールやアミューズという大手事務所、レコード会社、メンバーが離れ離れになることもなかった。
     そうした一切を失ったアイドルグループがあった。Perfumeがインディーズデビューした同じ年に「恋するねぎっ娘」でデビューしたNegiccoという新潟生まれのアイドルグループだ。2004年の10月に渋谷O-WestでPerfumeと共演している。この頃はNHKのポップジャムに出演したり新潟の地産アイドルとして東京のライブイベントにも呼ばれていた。
     Negiccoの苦難が始まるのは2005年からだ。アップル・リトル・パフォーマーズという彼女達の所属したスクールが閉校になる。歌のレッスンや振付をしてくれる先生もいなくなり、自分達で他のアイドルグループの振付を見ながら自分達で振付をやらざるを得なくなる。スクールが閉校になった時点で解散と思われたが新潟で商店街のイヴェントを企画していたNegiccoのファンだった現在のマネージャのクマさんに拾われその事務所預かりになる。楽曲もNegiccoのファンだったconneyさんという趣味で音楽を作っていた人から無償で提供してもらう。conneyさんはNegiccoに提供した『超耕21ガッター』のエンディングに「東京は夜の7時」というフレーズを挿入する程、Pizzicato Fiveと小西康陽が大好きなひとだった。
     そして翌年には当初4人で出発したメンバーからMikuというメンバーが脱退する。高校に進学するKaedeも高校進学のために休業する。この年から徳間との契約も切れ全国レベルでのレコード発売ができなくなり、事務所でCD-Rを手で焼いて発売することになる。殆ど崩壊寸前だった。
     Perfumeが持っていたスクール、事務所、レコード会社、メンバーのその全てをNegiccoは失くしたのだ。その崩壊からNegiccoを救ったのはファンの人達だ。ファンでマネージャーだったクマさんが熱心にKaedeを説得してくれた。リーダーのnaoもMikuが抜けた穴を埋めるべくカラオケボックスにこもって歌の練習をした。そして無償で楽曲を提供してくれるファンのconneyさんの素晴らしい曲を届けるという目的のためにNegiccoは持ちこたえる。2008年にGAMEツアーでPerfumeが新潟に来た時にNegiccoはPerfumeと再会を果たす。
    「実は、Perfumeさんが全国ツアーでいらっしゃった新潟LOTSで、あ~ちゃんさんとお話できたんです。2004年にO-WESTで対バンしてるんですけど、まさか私たちのこと、覚えてくれてるとは思わなくて、感動しました
    あ~ちゃんさん。『いつか同じステージに立ちましょうね』って言ってくれたんです」

     Negiccoにチャンスが訪れたのが2009年のGyaOで配信された「ヌキ天」という番組への出演である。4週勝ち抜けば賞金100万円とメジャーデビューができるという触れ込みだった。4週目は5人の審査員全員が合格を出さないと勝ち抜きにならない。新潟からもネギを握りしめたファンがスタジオに駆けつけて応援する。ところが4週目に一人の審査員が不合格を出す。理由は自分がプロデュースするとしたらどうしたらいいか思い浮かばないというものだった。リーダーのnaoが反論する。Negiccoはこれまで自分達でプロデュースしてきたのだと自分達で振付をし歌ってきたのだと。審査員の一人だったブラザートムが今回なかったことにして、もう一度4週目をやらないかと提案する。そして本来あるはずのない5週目にNegiccoは挑戦する。5週目も審査員の一人が不合格を出す。新曲を聞きたいという理由だった。そしてもう一度新曲でのチャレンジとなる。6週目は全員の合格が出た。
     ところが、主催者のGyaOが経営不振で統合され、副賞の賞金はなくなり、メジャーデビューもあいまいになる。やっと1年後にCDを出すことだけはできることになる。
     提供してもらった楽曲「ねぎねぎRock~ 私をお家に連れてって~」で2010年に「U.M.U AWARD2010〜全国アイドルお取り寄せ展〜」にてグランプリ受賞し知名度があがるも副賞だったテレビへのレギュラー出演も一回で打ち切られる。
     そんなNegiccoを思いがけないところから救いの手が差し伸べられる。浅草ROXまつり湯の演芸イベントに毎月出演することになる。演歌や漫才の合間に温泉客のために歌う仕事で、ある意味どさ周りの仕事だった。

    nao「Negiccoのコンセプト的に、なるべくお客さんの近くにいたいって考えたんです。ライブしながら、お客さんに笑顔で握手したり、写真を撮っていただいたいり、一人でも聴いて頂けるかたを増やすにはどうしたらいいのか、こっちを振り向いて、笑って頂けるにはどうしたらいいのかなって、どれだけNegiccoを知らない方を惹きつけられるかを考えていました。以前だったら、見てくれない方のことは、諦めていました
     実際に、まつり湯のライブも、「うるさいなぁ」っていう顔をする方もいらっしゃいました。
    でも、せっかく同じ場所にいるんだから、最後にみんなで一体感が出たらいいなって、そこにいるすべての方に、笑って帰ってほしいな、って思ったんです。
    それじゃなかったら、悔しくって帰れない!とまで思いました。
    私たちって結構負けず嫌いなんです。
     どんな小さなイヴェントでも、地元でも、〈まつり湯〉さんとかでも、どこかで誰かが見ててくれるかもしれないっていうのを常に信じてやってきて。そしたら、まさか温泉のイヴェントで、そんなすごい方が来てるとは思ってなかったので。〈まつり湯〉さんのステージは、演歌歌手の方や漫才の方がやられるところなので、私たちみたいに爆音でやるような音響の感じじゃないんですけど、それが逆にアットホームな感じで楽しめたりしてて。だからすごくいいイヴェントで。音響が出なくなっても、何クソ根性でがんばらなきゃいけないなって最近すごく思うのが、いままではがむしゃらにやってきたけど、最近はどんなに知らない方でも、お客さんがあっという間に楽しんでくださるようになったのがわかって。その連鎖がすごくうれしいです。やっぱりNegiccoファンから出てる温かさと、礼儀正しかったり、常に周りの方に迷惑がかからないように、迷惑がかかったらそれがNegiccoのマイナスになっちゃうとか、ファンの方がいろいろ考えてくれてて。だから、ファンの方はすごく……誇れるファンの方ばっかりなんです」
     2011年6月3日Towerレコードがアイドル専門レーベルを立ち上げた時の第1弾アーティストとしうて記者会見で紹介された時、Negicco達はTowerレコードの嶺脇社長が毎回〈まつり湯〉に見に来てくれていたファンの一人だったことを知る。
     Negiccoはファンから楽曲を提供され、ファンによって運営され、ファンによってレコード会社を作ってもらった稀有なアイドルグループだ。

    Negicco「圧倒的なスタイル」


    Nao「苦労してたからこそ、人の情がわかる。Perfumeさんがその通りの存在なんだなって思うんです。ライブDVDとか見ても、感動して情が移るのか、胸が熱くなります。どんなに大きくなっても、礼儀正しく低姿勢でいたいって思ってます。Perfumeさんをお手本にしたいんです」
     Negiccoの代表曲圧倒的なスタイル」は曲の最後の間奏で見知らぬ観客達が肩を組み一体となってラインダンスを踊る。
     Negiccoの夢は武道館で1万人のファン達とラインダンスを踊ることだ。

     2006年はPerfumeのその圧倒的なスタイルを確立した年だ。
     そして2007年のブレークの年へと向かうところまで書いた。

     私はPerfumeの3人について、これまであまり書いてこなかった。
     西脇綾香、樫野由香、大本綾乃という個人に迫る書き方をしていない。結局3人のことを書くとすると家族のことを書かざるを得ない。プライベートなことなのでフィクションとして書くしか道はないように思えた。Perfumeの物語はある意味で家族の物語でもあるからだ。
     フィクションを書くというのはキャラクタを削り出すような行為であり、研究とは違った文脈にならざるを得ない。これから自分の書けるところから書いてみようかと思う。

     私は20年以上、音楽を聴くこともなく暮らしてきた、昔、聞いていたやロックは私にとってすでに懐メロにすぎなくなっている。

    「すでにロマンスは死んだ。
     それなのに僕らはいつしかラブソングを口ずさんでしまう」
     30年前に作った自分の映画につけたキャッチコピーだ。
     今も何も変わってない。
     
     2004年お前は何をしていた。
     2005年お前は何をしていた。
     2006年お前は何をしていた。
     2007年お前は何をしていた。

     と、問われたとしても今の私に何も答えられない。
     2004年って息子が小学校に入学したんだっけ、仕事って何やってたっけ思い出せない。
     

     2004/5/5広島フラワーフェスティバルのさくらステージ&ダリアステージにPerfume出演

    2004-FW.jpg


    あ~ちゃん「フラワーフェスティバルさんには、アクターズスクール時代から何度も出演させて頂いて、前に出た時はコブクロさんの一つ前だったんよ。
    コブクロさんの前座をやらせてもらって。もうお客さんみんな、コブクロさんが出てくるのを心待ちにしてるんですよ。だから『早く引っ込め!』って声がいろんなところから聞こえてくるんですけど、『もう1曲だけ歌わせてください!』『私達Perfumeって言います!名前だけでも覚えて帰ってください!』って、すごい必死じゃったね」

    2005/5/5 広島フラワーフェスティバルオリーブステージ「Perfumeのどっきどきオンステージ」出演

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    あ~ちゃん「500円の赤いウサギがプリントされたTシャツに、夏なのに冬物のコーデュロイのスカートを穿いてスカートは穿いて」
    のっち「それしか買えんかったんよね、お金無くて」
    あ~ちゃん「アクターズにいた時よりも情けない格好で出て、お母さん、お父さん、家族にもほんに申し訳ない思いをさせたし、上京して広島に帰って来て、何の成果も挙げていないのに気を使っていて申し訳なかった。」

    P110505-0.jpg


    ちゃあぽん
    「今年は何とねー、私のお姉ちゃんPerfumeが、スペシャルゲストで凱旋ライブが出来ることになって、
     それがね昔からお姉ちゃんはFF(フラワーフェスティバル)のイベントでお世話になっとって、
     まぁ~ちゃあぽんもそれに良く出させてもらっとったんじゃけど、
     いろんな人に応援してもらえるようになってからは初めてのFFじゃけん、
     『やっぱり家族みんなで見届けたいね』って言うて、
     ほいで急遽家族みんなでFFに見に行って応援してきたんですけど、
     やっぱり昔はちっちゃいステージに立って歌って踊ったりしよったけぇ、
     感動したわ~もう誇らしゅうて、誇らしゅうて・・・すごいうれしかったです。
     お姉ちゃんも、ず~っとステージ上で号泣しとって、
     それを見てちゃあぽんもず~っと号泣して、
     なのですごい思い出に残るステージでした。本当に、素晴らしいです。
     凄かったねぇ~人がホンマにね。
     ちゃあぽん、広島であんなに人が集まっとるところ初めて見たもん!
     ホ~ントにうれしかった!
     もう自分の家族じゃないように思えてね。
     平和公園の辺りでやらせてもらったんじゃけど、もう人が埋まっとったよね、全部。
     すごかったです。
     ほいでね~やっぱりそういうのを見ると、昔上京してから毎年帰って来よったフラワーフェスティバルでね、
     こんなにお姉ちゃんらのことを見に来てくれた人がおるんじゃ~って思ったら、もう本当にうれしくてねぇ。
     ちゃあぽんもお母さんも・・・
     いや、ちゃあぽんとお母さんだけじゃなくてね、
     関係者席におった人み~んなで号泣しとったよ!
     お姉ちゃんが、
     『見て下さってるみなさんも一緒に泣いて下さっとる方がおって、
     “あっ、こんなに私たちのことを身近で見て応援してくれとる人がおるんだな”って思ったら、
     すごいうれしくて感動して泣けたんじゃ!』って話をお姉ちゃんが言ってました。
     みなさんのもらい泣きを見て、お姉ちゃんがまたもらい泣きしとってね。
     「めぐりめぐるよ~」いうことよ。すごいねぇ(笑)」
                                 NACK5 ちゃあぽん(西脇彩華)


     そして、2010年11月3日私はPerfumeのファンになった。

    2014.01.26 | コメント(2) | トラックバック(0) | Perfume

    Perfume研究6 ブレイク

     2007年にPerfumeのブレイクが何故起きたのか。ブレイクとは言ってしまえな社会現象だ。多様な価値観を持つ人々にある種の熱狂をもって受け入れられ伝播し認知されてゆく。Perfumeは2006年にアミューズのBE-HIVEプロジェクト終焉と共に解散の危機を迎え大学進学を3人を決めた。その解散の危機を救ったのは徳間レコードからすれば想定以上のCDの販売実績だった。秋葉原を中心とした熱心なPerfumeファンのCDの買い支えとテクノやロックといったアイドルとは違う客層の広がりが販売の下支えをしていた。掟ポルシェやRHYMESTERの宇多丸といった色んなミューシャンの支援も見逃せない。ただ、それでもシングル5千枚、アルバム1万枚が精一杯でブレイクと呼べる程ではなかった。
     2006年10月28日の武蔵野美術大学芸術祭「野外フェスティバル’06」でファン層の広がりを3人は少し感じられはしたが、2007年9月12日のポリリズム発売までは何が起こっているのか彼女達には実感がなかったという。
     2007年2月26日に初回盤が売り切れたため「Perfume~Complete Best」通常盤の発売されると同時に「チョコレートディスコ」が入った「ファン・サーヴィス[sweet]」をリリースする。この2本の販売開始からポリリズムがリリースされる9月末までの販売推移を表にまとめたので見て頂きたい。

    suii2007.jpg


     3月までの動きはこれまでのファン層の広がりの延長で想定できる範囲だが、7月から急激に売上が増え始める。通常であれば考えられない売上推移だ。毎週1500人の新しいファンが増え続けているのだ。この頃はPerfumeのCDを置いているレンタルCDショップはなく興味を持った人はCDを購入するしか道はなかった。「ファン・サーヴィス[sweet]」は9月末で1万枚を売り尽くし販売を終了した。「Perfume~Complete Best」はその後も売れ続け2008年4月にGAMEが販売される頃、毎週7千枚を売るピークを迎え(オリコン25位)最終的に20万枚以上のセールスを記録する。これまで秋葉原を中心とした東京近郊のアイドルグループがNHKのAC広告機構のCMに乗ることで一挙に全国区のアイドルとして認知され始めたのだ。それも普通のアイドルとは何か違う新しいアイドル像が一般の家庭に浸透し始めた。

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     木村カエラ「CMのね、CMに出るきっかけがね、このCMディレクターさんが言っていた話によると歌手の木村カエラ22歳がラジオ番組でPerfumeを絶賛し曲を流していたのを偶然聞いたCMディレクターが世代的に新しいのに懐かしいテクノボイスが印象に残ったと起用を決断したと、なんで私を使わないんだと(ムカ!)、これっ、何故だと!(プン!)Perfumeがね応援してたからCMに出れるのは嬉しけど、でも、あたしじゃないですか、このきっかけ、完全に、じゃこれあたしがラジオで自分の曲流してたら、あ。新しい世代的に新しいのに懐かしい、何ボイスっていうんですかね、ナントカボイスとか、私を起用することになったかもしれないですもんね。どんなタイミングで聞いたんですかね。一緒に出れないのかな。あれっ!、Perfume4人だったけみたいな、いつも踊っているという、これはありですよね、この話も偶然聴いてないかな?
     でも、これすごい話ですよね。PerfumeのCM楽しみしとかないとね。でもなんであたしを使わないんだ。私も踊れますからね。チョコレートディスコ・・NHKのCMに出させてくれー!いやーん。でもねPerfumeの人たちおめでとうございます。なんかね、いろんなとこで出てるとね、こっちも嬉しくなるし、ドキドキしますね。」
                            (J-WAVE OH! MY RADIO 2007年06月26日放送)

     PerfumeはNHKのAC広告機構のCMに出れたからブレークしたのだろうか。
     Perfumeが採用される前の2006年からAKB48のメンバーがAC広告機構のCMに出演し、「リデュース・リユース・リサイクルの3Rで地球を救おう」というメッセージを視聴者に投げかけている。出演者は、 AKB48(アキバ48)の篠田麻里子、小嶋陽菜、大嶋麻衣、峯岸みなみ、佐藤由加理だ。



     今でこそ国民的アイドルと呼ばれ、知らぬものはないAKB48だが、2006年頃は全く無名で、メジャーデビューもしていなかった。AKB48劇場(キャパ250名)もまだガラガラ、初日から千秋楽まで満員になるのは2007年春のことだ。そして2008年にはソニーレコードがAKB48を見限って契約を切られ、キングレコードへの移籍を余儀なくされる。そして2009年に選抜総選挙を行い、日本武道館2DAYSコンサート、「RIVER」でオリコン1位を獲得、紅白歌合戦出演と2008年にPerfumeに起こったブレークを追うことになる。

     AC広告機構のCMは電通と博報堂が交代で請け負うのが業界の慣習のようだ。2006年はAKB48の運営に携わっている電通だったことや金のないAC広告機構からすればAKB48は無名でギャラも安く使いやすかったのではないだろうか。
     そういった意味では博報堂の持ち回りの年だった2005年に、「地球温暖化防止大規模「国民運動」推進事業」の企画の一環である打ち水大作戦に参加したPerfumeはギャラも安く企画としても実績があるということで通しやすかったかもしれない。博報堂が2005年に環境省に提出した提案書(環境省で一般公開)を見て頂ければ、打ち水大作戦運営委員会やNHK、AC広告機構が組み込まれているのがわかると思う。2005年という年はCO2削減のためにクールビズを大々的に展開した年で小泉首相や小池環境大臣のプロモーションも企画の一部に入っている。要は公共団体、NPO、企業を使って政府が金を出さずに効率よく宣伝するにはどうすればいいのかという提案書だ。博報堂がPerfumeが打ち水大作戦に参加しアニメの声優をやり「ぱふゅーむ」として「アキハバラブ」というCDをリリースしたことなど知る筈はないが、アミューズのアイドルグループが愛知地球博のイベントに参加したくらいの認識があったかもしれない。

    打ち水
    NHK.jpg


    のっち「きひひ(笑)、ぶっちゃけるとレコーディング中です!!!!!!
     噂によると、大人達の間で Perfumeがついてけないくらい
     なんやもぅわけわからんでかいプロジェクトが動いているらしいっス!!!( ̄―+ ̄)」
                               (2017/5/4のっちブログより)

    ポリリズム歌詞中田氏宅で熟読中


     2007年の4月、新年度入りすると環境保護キャンペーン「リサイクルマーク/エコマーク」が始動する。博報堂は公共機関であるNHKのCMに直接関われないため、関連が深い制作会社TYOが NHKから委託を受けてCMの制作にあたることになる。TYOのディレクターがたまたま木村カエラのラジオ番組でPerfumeのチョコレートディスコを聞き、Perfumeの採用を提案、4月末にはアミューズにオファーがあったと思われる。4年間、現場任せでほったらかしていたアミューズの上層部がPerfumeのために初めて動き始める。CMにカタカナではあるがパフュームというタイトルがついたのはその表れかもしれない。

     『チャンスの神様は前髪しかない』(運命の女神(フォルトゥナ)は、やってきた時に前髪をつかめ、すれ違ってからでは遅い!)

     このチャンスに最も俊敏に動いたのは中田ヤスタカだったのではないだろうか。
     AKB48の時はあくまでも出演者として登場し、グループ名のタイトルもなく、AKB48のメンバーが出ていることに当時誰も気づくものはなかった。
     アミューズはCMのタイアップ曲を作りリリースすることを中田ヤスタカに望んだ。
     中田ヤスタカはクライアントが望むならエコマークを連呼したって別によかったとさえ言い切る。ポリリズムの作曲と作詞は数日で書き上げたと思わる。その後もCM用とか多数のバージョンを要求に応じて作ることになる。5月4日にはのっちのブログにあるようにPerfumeを自宅のスタジオに呼んでレコーディングを終えている。
     ただ、当時ニューヨークにいて演出の勉強をしていたMIKIKOさんの振付はCM制作には間に合わず、サビの振付だけMIKIKOさんの朋友の香瑠鼓さんに依頼している。それだけ7/1のCM公開のスケジュールはタイトだった。制作会社だけではなくNHKやAC広告機構の承認を得るにはかなり時間がかかるため6月23日にCM制作発表したことを考えると5月下旬には編集を含めてCM制作を完了していなければならない。そのCMをまず見てもらいたい。

    NHKのCM(ポリリズム)


    このCMの中で歌われている歌詞を見てみよう。ヤスタカがPerfumeに提供した歌詞には一度もでてこなかい『メッセージ』という言葉が繰り返されている。唯一エレクトロワールドで「本当のことに気づいてしまったの この世界の仕組み キミに手紙残すよ」という『手紙』がこれに近いかもしれない。

     くり返す このポリリズム
     あのメッセージ まるで恋だね
     くり返す いつかみたいな
     あの光景が 甦るの
     くり返す このポリリズム
     あのメッセージ まるで恋だね
     くり返す いつかみたいな
     あの光景が・・・

     『あのメッセージ』とは何を意味するのか。CMの制作意図からするとリサイクルであり、環境保護なのだろうが、CDとしてリリースされた同じサビの歌詞を見て頂きたい。

     くり返す このポリリズム
     あの衝動は まるで恋だね
     くり返す いつかみたいな
     あの光景が 甦るの
     くり返す このポリリズム
     あの反動が うそみたいだね
     くり返す このポリル一プ

     『メッセージ』という言葉が『衝動』という言葉に置き替わっている。『衝動』という言葉がCMにそぐわないのでCM版では『メッセージ』に変更させられたのだろうか。むしろ、中田ヤスタカは意図的に言葉をすり替えたのではないだろうか。『あのメッセージ まるで恋だね』という言葉がリフレインされることで視聴者の興味を『あのメッセージ』の本当の意味を知りたいという欲求に向かわせようとしたのではないか。中田ヤスタカの楽曲は何度も繰り返されることで彼の楽曲の良さが伝わってくる。何度も聴いている内に気になってしょうがなくなる。私の友人もテレビで流されるポリリズムを何度も聞くうちにPerfumeが気になってしょうがなくなり、動画を見、CDを買い、いつのまにかPerfumeにハマってしまったという。

     この世界をつき動かしているのは響き合う人の鼓動であり、そこから生まれる衝動ではないのか?

     以前ポリリズムについて書いた記事があるので読んで頂ければと思う。

    ポリリズム

     ポリリズムにはCM版とCDシングル版以外に色んなバージョンがある。ポリループがないラジオ版もあるが、デモバージョンという2007年8月11日のSUMMER SONIC 07」 @大阪ステージで歌われたバージョンがある。



     このバージョンでは現在のポリリズムとは歌詞が少し違っている。歌詞の並びが変わっているだけの部分が殆どだが、このデモ版にだけ存在する歌詞がある。

     「ほんの少しのキミの思いが 何かに変わる 偶然じゃない」

     中田ヤスタカはcapsule以外は提供する歌手のために楽曲を作ることをポリシーとしている。だから提供する歌手が変われば、曲の雰囲気も歌詞も変わる。そしてポリリズムという歌はPerfumeの3人のために作られた歌だ。そして3人への想いがあふれてしまった歌詞だからこそ、あえて削ったのではないだろうか。
     中田ヤスタカが楽曲を提供した歌手の中ではPerfumeが一番長い付き合いだ。中学生の頃は何を言っても「ハイハイ」と優等生のようにしか返事をしなかった3人が、他の二人のレコーディング中にゲームに興じるまでになり、ほんの少し関係性が変わっていった。

    20070504中田氏宅

     違った個性を持つ3人が織りなすリズムが、声が、合わさった時の美しさをレコーディングをしながら中田ヤスタカは知るようになる。裏表ない素直な3人に中田ヤスタカも心を開いていく。最初は泣きながらレコーディングしていたPerfumeの3人が親戚のオジサンみたいな親近感をヤスタカに感じるようになっていた。ヤスタカは制作現場の最前線にいて次の仕事に関わってくるためPerfumeの解散の危機も知っていただろうと思う。秋葉原でストリートライブをやり警官に止めらたことや、ビラを配ったり、雪に降られて中止になったことや、他愛のない話の中で聞こえてくる彼女達の声をキーボードを打ちながら拾っていたと思う。だからこそ、ポリリズムは3人にとって最後のチャンスかもしれないと彼は思ったのではないか、普通の中高校生が送るような部活や学校生活を捨て、ただ、音楽が好き、踊ることが好きという想いを伝えるためだけにレッスンを重ね、ライブをやり続けた3人が生き延びる道を閉ざしてはならない。キミたちがやってきたことに無駄なことなんかひとつもないんだ。その想いはきっと伝わるんだ。その想いがあふれすぎた歌詞を削りポリリズムは完成した。

     ほんの少しの 僕の氣持ちが
     キミに伝わる そう信じてる
     とても大事な キミの想いは
     無馱にならない 世界は迴る
     ほんの少しの 僕の氣持ちも
     巡り巡るよ

     そうした想いはファンの中にも伝わっていった。Perfumeファンになった人が必ず陥る想いがあった。何故、もっと早くPerfumeの曲に出会わなかったのか、何故もっと早く彼女達を応援できなかったのかと。そんな贖罪の気持ちを込めてCDを買いライブに足を運ぶようになるファンは多い。
     そして、9月12日「ポリリズム」がいよいよリリースされる。
     その頃の2chanのメッセージを拾った動画を見て頂きたい。



    リリースされたポリリズムのCDのB面に「SEVENTH HEAVEN」という曲がある。その曲の感想をのっちが語っている。

    のっち「君のためなら死ねるっていうすごいラブソング。
     中田さんも『踊りながら泣ける』っていってました。」
    以前、「SEVENTH HEAVEN」について語った記事があるので良ければ見てください。

    SEVENTH HEAVEN

     「SEVENTH HEAVEN」という曲は中田ヤスタカがPerfumeの3人に送ったラブレターだったのかもしれないと今では思う。

    2013.12.30 | コメント(6) | トラックバック(0) | Perfume

    Perfume研究5 圧倒的なスタイル

     繰り返す毎日に いつしか埋もれていた
     当たり前の様に感じてしまってた
     輝いてたはずの ときめきは どうしてるの
     言い訳の言い訳を考えてばかりで
     大切なモノを見失わないでいて
     全て君の手の中にあるから

     踊ろうよパラダイス
     君だけのステップ見せつけて
     誰も追いつけない圧倒的なスタイル

                     (「圧倒的なスタイル」 歌:Negicco 作詞作曲:connie)

     夜明け前が一番暗く感じるという。ただ、Perfume的にはもっとも暗かったのは2005年ではなかったかと思う。2006年は中田ヤスタカ(以降ヤスタカと呼ぶ)作詞作曲、MIKIKOさんの振付、関さんの映像というPerfumeを取り巻くその圧倒的なスタイルの基礎が確立した年だった。そして真鍋大度氏が初めてPerfumeに注目したのがコンピュータシティからだった。
     MIKIKOさんが東京に拠点を移すのはアミューズの大里氏から2005年に演出した『DRESS CODE』で見出されれ、演出振付家として生きることを決心したからだ。
    高校生の頃ダンスに目覚め、ダンサーとして生きていこうと決心してから10年が過ぎていた。バックダンサーとして東京と広島の往復し、アクターズの先生として生徒にダンスを教え振付をしながら、逆に生徒達からモノ創りの楽しさを教えてもらったという。
    「ここから私がしないといけないのは、“先生”として留まることではなくて、“演出振付家”としてレベルアップすることなんです。正直、体当たりでぶつかりあった生徒や仲間と離れるのは想像以上にしんどかったけど、私が広島を離れた意味を感じてもらえるように、もっと大きな背中になれるように、頑張るのみです。」(MIKIKO)
     MIKIKOさんが師と仰ぐバレーの先生から教わったことを自戒として日記に書き留めている。

     『ダンサーの肉体は鍛えるほど外へと広がり、体の中に何一つ無駄な力が溜まらないようになります。
     それに反比例して精神はどんどん中へと入っていきます。
     外へ広がれば広がるほど中心がはっきりと現れてくるのです。
     これはどんな職業にも当てはまると思っています。
     今の自分の持っているものや思考がすべてではないことを知る意味では同じなのです。
     ダンスの中でもダンサー、教師、振り付け家などの職種があります。
     例えば教師では、経験が浅い教師は声を無駄に張り上げたり、
     生徒よりたくさん踊ったり、かなりの体力を消耗してしまいます。
     これは教師が成長する過程としては大変重要なことで、
     このエネルギーは生徒にとっても決して不必要なものではないのです。
     しかし経験を積むと、人に伝えること自体に力が要らなくなってくるのではないかと思うのです。
     伝えようと思って伝わるものではないことに気が付くのかもしれません。
     そして、見つめる作業へと移行していきます。』

     そんな先生からMIKIKOさんが受け取った言葉が『MIKIKOの振付にはスタイルがある』というものだった。
     MIKIKOさんは何よりもうれしかったという。
     自分の演出のためのネタ帳に『スタイルのある演出振付家になる!!』という言葉をびっしりと書き留めたのはこの頃だ。
     MIKIKOさんがアクターズの講師からアミューズ専属の演出振付師への転身した想いはPerfumeの3人が一番よくわかっていたし、同じ事務所になってどれだけ3人にとって心強かったかしれない。Perfume結成前からの付き合いであるMIKIKOさんにあ~ちゃんが「先生がいないとはじまりません」とMIKIKOさんのネタ帳に書き込くらい慕われていた。
    MIKIKOさんは渡米準備のために2005年末に上京し、半年間東京にいてニューヨークに旅立つ。それからは帰国するまでPerfumeの3人に対してはビデオを日本に送付して振付を行った。

    関 「3人に振り付けを伝授するためにハンディカムで撮ったものをVHSで送ってくれて。
     マネージャーさんが気を利かせて僕に送ってくれたんですけど、部屋着姿の女性がひたすら踊ってるんですよ(笑)。」
    MIKIKO「1人づつね」
    関 「そうそう。『じゃあ、のっちやりまーす』って(笑)。どんどん夜は明けていくし。
       あー、この人がMIKIKOさんなんだーって。」 (ライゾマティクス)

     Perfumeの歌の振付だけではなくライブの演出を行うようになるのは帰国後のことだ。

     そんなMIKIKOさんやPerfumeの3人が自分達の表現のベースにあるのは歌詞の理解だ。
     歌詞の中に込められている感情やストーリーを振付としてどう視覚化するかがMIKIKOさんの表現であり、その振付をどれだけ自分達の肉体を使って観客を魅了するかが3人の表現といえる。
     PV制作の関さんも楽曲を受け取ってからテーマを決めてイメージをふくらむ。
     3者3様の受け取り方が有機的に結合して絶妙な効果を上げライブで観客を魅了するのだ。そしてライブで観客の声援に対応して曲が進化しPerfumeの圧倒的なスタイルが完成する。誰かが全体を統括しているわけではない。スタッフや観客がPerfumeに共感しPerfumeのために精力を傾けることで作り上げられる。
     その根幹となる楽曲の作詞が木の子さんからヤスタカに変わったのが2006年1月にリリースした「コンピュータシティ」からだ。
     Perfumeのあ~ちゃんがことある毎に初めて好きになった曲は「コンピュータシティ」からだと発言している。初めて学校の友達に是非聴いてほしいと言ったり、自分達のCDを買いに行ったり、学校にポスターを貼ってもらったりした曲だという。逆に言えばそれまで一度も3人は自分達の曲を身近な学校の友達に聴いてほしいと勧めたり、好きになったことがないということだ。一人でも観客を増やしたいとストリートライブでもなんでもやってきたにも関わらず、何故自分達の身近な人間に曲を紹介できなかったのか。
     「コンピュータシティ」をリリースする前に発表したPerfumeの歌はオリジナルで15曲もある。広島時代のOMAJINAI★ペロリや彼氏募集中を除いても13曲だ。そしてコンピューターシティ以前の曲は最終的にライブで歌われることもなくなるのだ。唯一「Perfume」というテーマソングと「ジェニーはご機嫌ななめ」というジューシーフルーツのカバー曲だけが歌い継がれる。広島時代の曲はテクノポップという路線と違うから歌わないというのはわかるが、それ以外は全てヤスタカが作曲した曲なのに歌われることはない。また、ヤスタカもcapsuleのファーストアルバムからヤスタカ一人で作詞作曲をやっているのに何故、プロとしての作詞の実績が何もなかった木の子さんだったのだろう。
     ヤスタカが木の子さんとアマチュアバンド『SYNC⇔SYNC』を結成することになったのは同じ専門学校の同級生で学校の課題で曲制作を行ったのが最初だ。ヤスタカは高校のとき作ったcapusleというグループのコシジマさんが金沢の地元の建築会社就職して遠距離ユニット状態で、自分の作曲したものをすぐに歌ってくれる女性ボーカルがほしかったので木の子さんと組んだというのが実態だろう。

    のっち「上京する前に、ジューシィ・フルーツさんの「ジェニーはご機嫌ななめ」っていう曲をカバーさせてもらってて、なんかそのイメージの流れで、前の、当時のマネージャーさんが、『こんな音楽やってる人いるんだけど』って、MDに録音してくれたのを聴かせてもらったりとかして」

    木の子さんのボーカルで作られた「冷蔵庫に納豆」を聞いてもらいたい。


    かしゆか「その曲を聴いたときに、全然歌が入って来なかったんですよ。何回聴いても、何回聴いても、歌が入ってこなくって」
    のっち「『れいぞーこになっとー』みたいな曲が一杯入ってて。(笑)」
    かしゆか「『れいぞうこになっとー』、右からひだりーみたいな(笑)」
    あ~ちゃん「本当にそうだった」
    のっち「分からなかった」        (RKBラジオ「チャートバスターズ」)

     3人は中学生で若かったし、テクノとか何も知らなかったからだと木の子さんを弁護してるが果たしてそうだろうか。
     曲そのものについてというより彼女達には歌詞を理解したくないという感じがする。

     賞味期限切れの恋を冷蔵庫の中の納豆に例える。恋人と別れて一人では多すぎる食材がいつのまにか冷蔵庫にあふれていく。見たくもないし、触れたくもない、即物的な生活を歌詞にしている。冷蔵庫の微かな音しか聴こえない孤独な女の生活が腐乱していく。人は自分を守るためにそうした異物や光景を無意識に避けようとする。私もビニール袋に2重に包んで大至急2、3ブロック先のゴミ収集場に行ってでも捨てたくなる。かしゆかが何回聴いても、歌が入ってこないという気持ちはわかる。こういう歌詞を書いた人を私は知らないし、確かに異能だと思う。純文学ネタかもしれないが、私は読みたいという気にならない。
     インディーズデビューする前のPerfumeの持ち歌は4曲しかなく、その中で「ジェニーはご機嫌ななめ」の路線に絞ってテクノ系で近未来というコンセプトをアミューズ側で立てたと思われる。この方針には3人も納得している。ただ、テクノ路線であれば中田ヤスタカ作詞でよかった筈だ。ヤスタカ作詞の「恋の花」や「東京喫茶」を3人に聞かせていれば、一発で彼女達の心に届いたに違いない。木の子さんが作った歌詞に対して3人は手厳い。

    あ~ちゃん「意味のわかんない歌詞だったりとか、英語が一杯あったりとかして結構、モノをだしてきて、それを例えたりとか、直接的な言い方がないよね」
    のっち「自分のあったことしか歌詞に書かないとか」
    のっち「自分の思っている気持ちが、ありがとう、ありがとうという言葉がたくさんでてきて、それを伝えたい、と思いながら歌うというのは、あまりなかった」

    「だって人間って自己中心的に考えるじゃないですか」と木の子さんが言い、自己の体験ベースの歌詞であることを隠さない。ファンデーションに代表されるションションメロディーは比較的木の子さんの肉声が素直に出た歌詞だがその分人によっては嫌う人もいる。Perfumeの3人は自分達の想いをのせられる歌詞に飢えていた。ライブで歌える曲を作ってと「Perfume」のテーマソングを木の子さんに依頼した。具体的にこの言葉を使ってくださいと彼女達の想いを渡した。ヤスタカから受け取った曲から好きな曲を選んでパズルのように言葉をはめ込むのが自分の作詞だと木の子さんはいう。「Perfume」は木の子さんの歌詞の中では初めて3人のために作った歌で私も好きな歌だ。香水の時間経過を人との出会いと別れに例える。歌詞の言葉を以下のように置き換えて読んだ方がわかりやすいかもしれない。

    トップノート(最初の香り=あなたとの出会い)
    ミドルノート(なじむ香り=夢の途中)
    ラストノート(残り香=思い出)

     トップノートは照れ臭いけど ミドルノートはいつもありがとう
     ラストノートは涙止まらず 歌える今日を抱きしめる

     トップノートに出会えた奇跡 ミドルノートを忘れないでね
     ラストノート消えない想い 私のここが 居場所なの

     アミューズは有望なアーティストの発掘と共にその育成、マネージメントが重要なポイントであり、広範囲のコンテンツやクリエーターを確保する必要があった。また、CDの売り上げに依存しないライブで人が呼べるアーティストを育成するために、できるだけ早く単独ライブができるくらいの楽曲をそろえる必要があった。木の子さんが自虐的『SYNC⇔SYNC』というユニットの特色として楽曲制作の早さがあり、それは当時業界内でも認められていたらしい。早くて安いのが取り柄のユニットはPerfumeの楽曲を2004年には9曲、2003年まであわせると12曲発表している。J-POPという日本の歌謡曲では分業体制が確立していて、作曲や作詞単位に協会や団体があり危篤権益を守る仕組みができている。夫々のパートを受け持つ人の食い扶持を守るための分業体制で楽曲が生産されていた。アミューズとしてはヤスタカに作曲に専念することで曲を量産してもらいたいという思惑もあったのではないか。そうした諸々の理由がアミューズからヤマハ経由で『SYNC⇔SYNC』というユニットに依頼がきたのだと思う。ヤスタカ依頼を受けた時には木の子さんが作詞することは決定事項だった。
     ただ、木の子さんの作詞の契約は2003年4月から2005年の3月までの2年契約で更新されなかったのではと思われる。メジャーデビューするにあたって作詞者を変えるのが条件の一つだったのかもしれない。2005年3月までに発表されている木の子さんの作詞は全て終わっているからだ。もっとわかりやすい歌詞でないと売れないと徳間サイドが判断したと思われる。

     ヤスタカがデビューした頃は自分の曲を編曲したいと言っても専門家に任せればいいと周りの大人達からたしなめられる。デビューアルバムの「ハイカラガール」でラジオに出たりといった普通のプロモーションが失敗したこともあり自分の思うようには曲を作るには説得材料に欠けていた。ヤスタカに求められていたのはメロディーメーカーとして曲作りに専念し作曲に徹することだ。そうした空気の中でヤスタカはNoと言い続けcapsuleの音楽スタイルにこだわり続けた。生意気な若造という意識を一つ一つ結果を出して粘り強く交渉し、自分の制作環境を築き上げてきたのだ。自分の楽曲制作環境を作るためにはタフなネゴシエーターとして働いた。それが木の子さんからヤスタカは職人というよりビジネスマンだと思われる要因になったのかもしれない。

     ヤスタカ「最初の頃は、超ネコ被ってたからな。誰のために曲を作ってたかっていったら、身近な大人のためっていう感じが確かにあった。だから、そこに向けて作っている感じだったんですよ。今だから言えるんですけど、プロっぽくしようとしてたかもしれない。だから楽しくなくて、やっぱり。高校の頃とかは好きな事やってるじゃないですか。それがいろんな大人から声がかかるようになってきて。でもその中でcapusuleって話なのか、俺一人なのかっていろいろあって。で、本当に一歩違ったら全然違うことしてたかもしれなくて。正直、作家としての話が多かったんですよ、昔は。で、人の言うことを聞くのがメジャーデビューって思ってたから。今まで、スタッフがいなくて自分達だけで考えてやってたような感じだったから、他にも考える人が出た時には自分は何も言わない方がいいんじゃないかって初めは思っていて、でも楽しくはないなと思ったんです。(中略)
     18、19くらいのとき、いろいろやってましたよ。それ以外にも、いろんなところから『作家として契約しないか』って話がくるんですけど、俺はcapsuleやりたかったんです。それで粘ってたんです」(MARQUE Vol.64)

     「ハイカラ・ガール」リリースから1年半後の2003年に「CUTIE CINEMA REPLAY」をヤスタカは自宅の録音環境で制作する。それまでデモテープを作り続けたが却下される状態が続いていた。それでも自前の制作環境にこだわり続けた。売上が上がらず現実家のコシジマさんは気が気ではなかったという。その後、スタジオジブリと『ポータブル空港』、『space station NO.9』『空飛ぶ都市計画』SF3部作を作成し(ジブリとコラボできて親孝行ができたとコシジマさんは喜んでいる)、2005年のアルバム「NEXUS-2060」まで仮想現実を映画のように演じ続けた。現実とはちょっとかけ離れた世界を演じるのはコシジマさんも楽しかったという。ヤスタカも頭を丸坊主にしたりオシャレな渋谷系のラウンジミュージックを演じ続けcapsuleというイメージを一旦確立した。そんなcapsuleの当時の状況を2004年にピチカートファイブの小西氏と対談から抜粋する。

    ヤスタカ「僕は60年代にあったものを別の違う物にしていきたいと思ってました。スタイルは欲しいんですけど、精神的なもので音楽をやろうと思っていなかったし、主張したいわけじゃないから、「世の中こうだからこうだよね」みたいな歌詞は出てこないんです。
     高校生の頃とか、そんなに音楽聴かなかったんで、例えばピチカート・ファイブも曲の事まで知らないんですよ。なんですけど雑誌はよく見てたから、「あ、羨ましい人がいる」ってずっと思ってました。それまで僕は、ミュージシャンというものをあまりいいって思ってなかったんですよ。僕のいいって思うミュージシャン像って、もっと出方・活動の仕方というか、何やってるかというのを明確に出せる人だから」

    小西「僕はカプセルを聴いてすごく感じたけど、ずばりヤマハっぽいと思った。僕、最初の音楽体験がヤマハの音楽教室だし、作曲のために使っているピアノもヤマハなのね。ヤマハって日本の音楽教育を変えた。ある一つの企業が、そこまで、いわゆる教育としての音楽を変えるってすごいことじゃない?そういう意味じゃ日本の音楽をやっている人の何割かは、強烈にヤマハという、ある一つの会社に洗脳されているです。で、カプセルの音楽にそれを感じた。言ってる和物と違うかもしれないけど、ある時期、歌謡曲以上にニューミュージックみたいなものって日本でしか聴けない音楽だったわけじゃないですか。そういうものに近い、コード進行とか整合性とかね。そういうおしゃれさがエイティーズっぽく感じる。和物ってもっと無理のあるコード進行じゃない?無理な解決とかするじゃない?僕に言わせると中田君の音楽は作曲のセンスはすごくいいと思う。アレンジはね、ちょっと懲りすぎてるかも」(MARQUE Vol.46)

     ヤスタカは「L.D.K. Lounge Designers Killer」で「NEXUS-2060」で一旦作り上げたイメージを壊し始め、2006年の「FRUITS CLiPPER」で明確にエレクトロに舵を切る。コシジマさんによれば「結成の頃もしくはcapsule以前の中田君に戻った」と言う。

     ヤスタカは「オレ、すげー!」というのが高校の頃の口癖だった。金髪に染め生意気な音楽好きの金沢の高校生だった。その頃、コシジマさんは音楽をやってたら男にモテるかもと音楽好きの人間がタムロするファミレスでだべっていてヤスタカと出会った。最初は無視されたらしい。ヤスタカも自分でボーカルをやって歌ったりしたが全く相手にされず無視された。自分が女性だったら、そのままシンガーソングライターでやっていただろうとヤスタカは言う。
    ヤスタカ「そのときの流行はジュディマリとかで、要は、女の子が元気よいヴォーカルしかいなかったんですよ。そういうなかでコシジマさんだけ、フォーマットが違ったわけですよ、歌の。変わった声がほしかったのは確かだから、そこはものすごい合って、それで、要は周りがみんな似てたんですよ。カラオケに行ってるのと変わらない感じに聴こえていて、カラオケを感じないヴォーカル、プロのレベルじゃないけど、そのレベルでやりたかったんですよ。だからやってくれるかなーと思って」
     結局、コシジマさんは地元の建設会社に就職し、ヤスタカは上京して専門学校に通いながら遠距離ユニットを組むことになる。デビューするために大量にデモテープを作らざるを得ず大変だったがヤマハの力を借りてなんとかしたらしい。遠距離ユニットだったが遠距離恋愛ではない不思議な関係だった。
     コシジマさんは「”恋の花”があったからこのユニットをやろうと決心した。『ハイカラガール』に入っている”恋の花”は中田君がそのときの自分の気持ちを察して書いてくれたかもしれない」とか言う。



     ヤスタカとコシジマさんはお互いわかりあっていたわけではないし『わかりあえない』というのが正直なところだろう。それでも何も不都合はなかった。ヤスタカはコシジマさんのヴォーカルがほしかったし、コシジマさんは自分の好奇心が満たせる場所がほしかっただけだ。
     発表はコンピュータシティより後だが、最初にPerfumeに提供した曲「wonder2」はひょっとするとコシジマさんとの関係を歌ったのかもしれない。

     つまらないって顔して いつも目を合わさない
     何か少しほめると ハニカミ笑いのキミ
     二人並んで歩くの 肩と肩触れるとき
     体温が伝わるの それだけでも幸せ
     色んな人と笑ったり泣いたり 語り合ったりするけど
     キミだけはほかと何かが違う 不思議な存在なんだよ
     好きとか言葉はないけど つながりあえてる二人のハアト
     つつんで ゆらゆら wonder2
     あの日止まった時計が また動き始めたら
     幸せな物語 永遠だよwonder2         (wonder2)

     この曲でPerfumeの3人の心をヤスタカは一瞬でつかんでしまう。

     高校の頃の音楽友達に今も同じ業界で活躍している親友のnishi-kenがいる。
     ヤスタカが2007年に個人事務所の引っ越した時のnishi-kenブログだ。

    「お引越し完了~!!
     とうとうヤスタカっちスタジオ持ちましたよ!!
     完全にオフィス&スタジオ。。。
     何か俺らが高校生の時に、二人で打ち込みしてる光景がぶわっと思い出されました。
     あん時はこれはこうだ!こうしたらすげぇ~なんて遊びまじりで打ち込みの話ばっかしてて
     あれから10何年経って、今はこんな現状に変わっていて。。。
     何かいろいろ思い出してジ~ンときたですよwww
     俺もスタジオ作るために頑張るぞ~~!!!!!」(nishi-ken)
     それから最近の話題。
    「去年かな?ラーメンショー行ったのは。ヤスタカと手分けして並んで7種類(小盛り皿で7杯)は食べたはず。単純にラーメン3~4杯分くらいが食えちゃう恐ろしさ感。環境って凄い(笑)」(nishi-ken)
     ディズニーランドにもヤスタカとnishi-kenはきゃりーぱみゅぱみゅに連れられて行ったらしい。30過ぎのオッサン二人が二十歳の女の子に先導されて後をダベリながら歩いていく構図が微笑ましい。

     何年、会ってなくても、会った瞬間に昔に戻れる関係というものがある。何故か、会った瞬間に「ヨッ」と昔の挨拶が出る。別にお互いどういう生活をしてきたのかわからないし、相手が自分のことをわかっているとは思わない。ただ、ある時期、同じ方向を向いていたことだけは確かだった関係。学校の部活だったり、音楽だったり、映画だったり何か目的を共有する時間を持っていた関係というものがある。その目的に対する考え方や感じ方は違うかもしれない。でも「あの時のスゴカッタよなー」というだけで通じてしまう。
     最後のときが絶対来ないなんて誰も言えない、多分来るだろう。その時はそいつの死に水だけはとることになるだろうと漠然と思ったりする。
     ヤスタカの歌詞にはそうした分かり合えなくったっていい、いてくれるだけでいい関係があるし、そういう関係性の中で自分は生きているんだという想いが歌詞に反映されているのではないか。
     ヤスタカにとって歌詞は作曲の一部で作詞に苦しむことはないという。作曲は自分の中で出来上がったイメージを落とし込んでいく作業に過ぎないらしい。2006年にリリースされたSF3部作(コンピュータシティ、エレクトロワールド)もスタジオジブリのSF3部作の裏返しの意味を持つ。ジブリと築き上げた未来社会が壊れ始め崩れ去るイメージが描かれる。ただ、そこに崩壊に伴う悲壮さはない。あるのは解き放たれる開放感だ。自分のこれまでの作曲でやってきたように、未来社会もまた作り直せばいいではないかと挑発する。
     ヤスタカとPerfumeのスタッフ、そして3人はいつのまにか同じ方向を向いてPerfumerというフィールドに立っていたのではないだろうか。同じ目的を共有する仲間、お互いの考え方や感情は違ったとしても、言葉を交わさなくとも、信じあえる仲間。



     スタッフの熱意でメジャーデビューしたとしても、売上が上がらなければ約束通り3枚で打ち切りになる筈だった。ただ、Perfumeの場合、他のアイドルグループとは売上の推移が違っていた。通常であれば、アイドルファンが購入する初回で売り上げは打ち止めとなり売上が殆ど伸びない。ところがリニアモーターガールの売上は初回こそ1183枚だが、次週も500枚前後売れ続けている。オリコンの累計は200位以内に入らないと累計されないため全体の販売数量はわからないが年末までに5000枚を超える売上を記録する。この頃は秋葉のヲタ達が買い支えてくれたのではないだろうか。秋葉の女王モモーイに協力してくれたモモイスト達のお返しかもしれない。

    2005/9/21 メジャー1stシングル「リニアモーターガール」発売。
    集計日 順位 売上 累計
    2005/10/03付 99位 1188 1188
    2005/10/10付 153位 567 1755
    2005/10/17付 (圏外)
    2005/10/24付 159位 471 2226
    2005/10/31付 190位 404 2630
    2005/11/07付 (圏外)

     次のコンピュータシティも同様な動きをしておりCDの売上はリニアモーターガールを上回っている。

    2006/1/11 メジャー2stシングル「コンピューターシティ」発売。
    集計日 順位 売上 累計
    2006/1/23付 45位 1853 1853
    2006/1/30付 117位 692 2545
    2006/2/06付 190位 468 3013
    2006/2/13付 193位 409 3422
    2006/2/20付 183位 419 3841

     メジャーの契約更改の目安が5000枚と言われている。リニアモーターガールだけで、徳間の想定CD販売枚数を超えたと思われる。2005年の決算を終えた後の販売予定では2006年度の販売予定が決まり、当初の3枚で終了という課題はクリアできていた。だから2006年度つまり2007年3月までのCD販売のロードマップは2006年4月頃にはできていた。ただ、徳間としては単価と数量が上げるアルバムの販売枚数の課題をクリアして長期契約できるかをみるために2006年度にアルバム発売が予定されたと思われる。アミューズとしてリスクを下げるため低予算で作成できるベスト盤に近い形でのアルバム制作を選択した。2007年4月以降Perfumeが存続できるかはアルバムの売上次第でどうなるかわからなかった。3人が大学進学についてマネージャー相談した時に大学進学を勧められたのも無理はない。

     BOYSTYLE 2005年に川田が脱退後目立つ活動は無く解散状態のまま2007年7月末をもって解散。Buzy(ビズィー、2002年 - 2006年)は、アミューズのエース「ポルノグラフィティ」のプロデューサーを手掛ける本間昭光を投入し新藤晴一作詞の「鯨」等すぐれた楽曲を提供し続けたにも関わらず2006年6月末に解散。
    2003年に広島から出てきて寮生活を始めた時のBee-hiveのメンバーはPerfumeだけが唯一残った。アミューズの上層部は経費がかかるだけのPerfumeの解散を一度決定していたが、徳間レコードとのCD発売の契約が残っていたため保留状態のまま活動が継続された。

    「Perfume~Complete Best~」が初回限定盤しか発売しないとわかった時、宇多丸がこれで解散なのかとPerfumeの3人を心配して聞いたのも頷ける。
    2006年は活動のエリアやジャンルを秋葉原のアイドルから新宿ロフト等のライブの活動範囲を広げロックやテクノのミュージシャン達や観客の心をつかみ始めていた。
    Perfumeの楽曲の良さが口コミで広がっていた。2006年のイベントではPerfumeさんが出られるのならとわざわざPerfume専用のワクまで作ってくれるイベント屋もいたという。

    2007/1/11 メジャー1stアルバム「Perfume~Complete Best~」初回限定盤発売。
    集計日 順位 売上 累計
    2006/8/14付 66位 3530 3530
    2006/8/21付 129位 1497 5027
    2006/8/28付 245位 841 5868
    2006/9/04付 80位 804 6672

     初動こそ、66位3530枚だったが、その後も着実に売上を伸ばし初回限定盤1万枚を年内に売り切り、翌年2月に急遽通常盤を発売することになる。
     この年、原宿アストロホールで『Perfume presents「~Perfumeがいっぱいサンタ呼んじゃいました♪~」』を開催した。サンタさんといいながら、ハコを押さえられなかったため12月21日のライブとなり3人は悔しがっていた。それが7年後に東京ドームでクリスマスライブをやることになるとは予想だにしていなかっただろう。
     翌年2007年はPerfumeブレイクの年となる。

    2013.12.01 | コメント(6) | トラックバック(0) | Perfume

    Perfume研究4 裏切りの季節

     秋葉原に一人の孤独なヲタがいた。桃井はるこというヲタだ。ヲタを自称する彼女はPerfumeの3人が生まれる10年前に生まれた。小さい頃から卵と魚介類の食物アレルギーがあり、誕生ケーキも食べられず、給食のおかずも残すことが多かった。好き嫌いするなと教師に言われて無理やり食べると具合が悪くなり誰にも知られないようにトイレに行って吐いた。ジャニーズのような他の同級生が噂するアイドルタレントには興味が持てなかった。アニメが好き、女性アイドルが好き、秋葉原の雰囲気が好きな彼女と会話を共有できる友達は誰もいなかった。彼女は中学時代の頃の自分を濁った水槽にいるみたいだったと振り返る。家と学校を往復するだけの生活。いじめの対象にもなった学校生活は息苦しさしか覚えなかった。そして成績は学年でトップだったにも関わらず彼女は定時制高校を進路に選んだ。同世代の均質な慣れ合い空間になじめなかったのだ。
    「わたしはずっと、自分の居場所が欲しかった。中学校のころ、学校になじめなくて、落ちこぼれで、深夜ラジオへの投稿が生きがいだった。高校生のころ、ネットと出会い、アイドルマニア仲間の同士と出会い、「自由」を手に入れた。そしてわかった。いままでの状況のほうが異常だったんだと。学校と家の往復だけ、同世代だけの限られた友人。「だけ」の毎日。ネットでは年齢・地域・仕事・様々な事情をとびこえて人と人、考えと考えがつながる。ネットはわたしにとって翼か、剣だ。年齢も力もお金も住所も関係なく、自分をのびのび出せる場所。」
     桃井は自分の好きなアイドルやアニメの情報がネットにあふれ、書き込めばいろんな人からレスポンスがもらえる生活に浸っていった。自分と共通するものを持った人がどんどんつながっていくのが楽しくてしょうがなかった。そんなつながりから自分のホームページを持ち、いろんなサイトや雑誌に記事を書くようになった。
     アイドルが好きでオタ芸と言われる観客と一体となったコール&レスポンスや踊りに夢中になっていた。そして独学で楽曲を作り自分が好きなアイドルに提供したり、自分自身が疑似アイドルとして歌い、ライブをやるまでになった。秋葉原やネットから教えてもらえることの方がずっと多いという理由で大学を中退し、秋葉原をホームとして活動に専念した。秋葉原でストリートライブもやった。「萌え」という秋葉原特有の言葉を、秋葉原文化を広める原動力ともなった。
     アイドルヲタには2種類のタイプがあるという。マジヲタとDD(誰でも大好き)だ。ヲタ以外は一般と呼ぶらしい。マジヲタとは一人のアイドルにのめりこむタイプでそのアイドルについて聞かれれば夜を徹してでも語り、情熱を惜しまない。ライブやコンサートでは「レス」を持ちたいと願う。「レス」とはライブ中にアイドルと目が合ったり、ニコッと笑ってもらったり手を振ってもらえることだ。そして、「認識」されたいと願う。握手会とかで自分の名前や顔を憶えてもらいたい。それが幻想だとわかっていればいるほど、胸が締め付けられる程、「認識」されることを欲するのだ。ただ、好きなアイドルがスキャンダルに巻き込まれたりするた時の傷も深い。打ち込んだ情熱が深ければ深い程、立ち直りも遅い。
     DDは失うことが恐いのかアイドルの周辺にいてグループの誰もが好きという位置にいる。ヲタ同士と語らいハッピを着てヲタ芸に打ち込んだりグッヅを収集したり。ヲタである自分が好きなのか。「誰も愛さない、だから誰からも愛されなくてもいい」とうそぶくようなところがある。好きなアイドルが引退しても平気そうに、もうそんなに彼女も若くなからしょうがないよと悟ったようにヲタ同士で語ったりする。引退ライブでもアイドルに背を向けたままヲタ芸に打ちみ声を上げ踊る続ける。そんなDDがトイレの中でボロボロに泣き、トイレットペーパーで涙と鼻水を一緒にかんで洗い流したりする。マジヲタとDDは対極にあるようにみえて根は一緒なのだ。不格好で不器用な心優しき人間達をヲタと呼ぶのかもしれない。
     ヲタをモチーフに「言葉はきっとグライダー」という動画を作ってみた。



     大学を中退して音楽活動を開始した桃井はるこは2000年にメジャーデビューする。アニメソングを歌うだけではなくアニメの声優としても活躍を始めた。『UNDER17』というグループを作りコミックマーケットでのイベント・ライブ活動や、数多くの美少女ゲームへの歌謡曲提供し秋葉原に確固としたジャンルを作り上げ2004年に解散した。解散する前の8月に渋谷O-EastでPerfumeと共演している。
     その後、桃井が単独で音楽活動を再開する頃の話だ。ミュージシャンの友達にメールで事務所に呼び出された。既に何人かの友達もきていた。そしてテーブルの上にはバースデーケーキがのっていた。(サプライズ、祝ってくれるんだ。でもアレルギーで食べれないって言わないと)そう思うと同時に「わぁ、ケーキありがとう」と少し大げさに喜んでみせた。『桃井さんお誕生日おめでとう』と書かれたチョコレートが置いてある。桃井は切なくなった。
    「おいしそうだなー、でもわたし食べれるのはこのプレートだけかな・・」自虐的に笑ってみせる。そんな桃井に友達はこう言った。
    「これ、卵入ってないんだよ、卵なしケーキなの」そういえばチーズケーキだ。
     桃井の無理に作っていた笑いが止まった。
    『覚えててくれたんだ』泣きそうになった。
    「おい、さっさと始めちゃおうぜ」と照れくさそうにもう一人の友達が電気を、涙の跡を消してくれる。7本のローソクに100円ライターで火を灯し、思い切り願いをかけて桃井は吹き消した。
    『この気持ちを、ずっと忘れないでいられますように』
     27歳で初めて食べた誕生ケーキはとてもおいしかった。

    「私を救ってくれたのはインターネットじゃない。「人」だ。
     私を励まし助けてくれた人だ。
     ネット上で会えた、人だ。
     隣で応援してくれた、人だ。
     今、私はそれを強く言いいたい。ありがとう。」
                               (桃井はるこの「アキハバLOVE」より)

     Perfumeは2003年春に上京しアミューズのBEE-HIVEの活動に参加しながら8月「スウィートドーナッツ」でひらがなの「ぱふゅーむ」から英文字のPerfumeとしてインディーズデビューをした。他のアイドルと差別化したいというアミューズ側の意向を受けてヤマハミュージックの中脇雅裕氏が同じヤマハ系列の中田ヤスタカを起用する。

     2004年3月17日 インディーズ2ndシングル「モノクロームエフェクト」発売。
    売上1018枚 オリコンウィークリー117位。

     Perfumeの楽曲を一人で引き受けることになる中田ヤスタカはこの年capsuleでアルバムがオリコン35位に順位を上げ、ジブリとのコラボを始める。そしてPerfume大量の楽曲を提供し単独ライブすら夢ではなくなった年だ。
     中田ヤスタカはこの時、24歳。
     Perfume のアートワークやPVでぶれないイメージコンセプトを作りだすことになる関和亮氏はCDジャケットを担当し、次から映像もやらせてほしいと願い出て採用される。 
    関和亮氏はこの時、27歳
     Perfumeの振付師及びライブの演出家になるMIKIKOさんは、まだ広島に拠点を置きアクターズでダンスを教えていた。ダンサーとして広島を拠点として活動することへのこだわりが強く、まだ振付師として演出家として生きていく決心がついていなかった。
    MIKIKO氏はこの時、26歳
     Perfumeのテクニカル面を将来背負うことになる真鍋大度氏はPerfumeという面白いグループがいると仲間内で話題になっていたがぴんときていなかった。真鍋氏がライゾマックスの設立するまで後2年。
     真鍋大度氏は、この時27歳
     将来のPerfumeを支えるスタッフたちはこの頃、名誉も地位も実績もお金もなかった。もし何かあるとすれば、新しい何ものかを生み出す自負と誇りだけだったのかもしれない。
     2004年から2005年にかけてPerfumeの3人の身近にいて相談相手になれたのはアミューズのマネージャーと掟ポルシェ氏、宇多丸氏くらいだった。

    2004/9/8 インディーズ3rdシングル「ビタミンドロップ」発売。売上 802枚 オリコンウィークリー119位。

     アミューズはCDの在庫を抱えるリスクをレコード会社に置き、原版権として売上の10~20%を自社のマネジメント料とアーティストへの分配を行うのがビジネスモデルだ。802枚であれば売上80万円でアミューズへの配当を仮に最大の20%としても16万円だ。そこからマネジメント料をとってCDの制作費を捻出する。当然、シングルの売上が16万円では赤字である。
     この頃、アミューズから徳間ジャパンの篠木氏にメジャーデビューの打診があった。篠木氏は徳間の前にリワインドレコーディングスという、アミューズとビクターが共同出資して作った会社で制作部長をしており、その当時から付き合いがあったアミューズのスタッフが「何とかして売り出したいユニットがある」ということで篠木氏に相談にきた。
     徳間は、演歌歌手の多い中堅のレコード会社でPerfumeの楽曲が理解されるかは微妙だった。篠木氏はとにかく音を聴いてみて、それから原宿や秋葉原などへ彼女たちのライブに何度も見に行ってみた。それでもピンときたわけではなかった。世代も違い、篠木氏の年代からはわかりづらいことは確かで、徳間の編成会議ではいろいろな意見が出るであろうことは予測できた。”詞の意味がわからない”、”ピコピコした音のどこがいいのか”・・・

    2005ストリートライブ


     Perfumeは2005年から積極的に秋葉原でストリートライブを行った。それまで石丸電機等でCDのキャンペーンをやったりしていたが、新しい客層をつかむためにテクノというイメージがなじむ秋葉原にターゲットを絞って精力的に活動した。
     これまで6か月に一回CDを出してきたが2004年3月はなんの発表もなかった。メジャーデビューがまだ、決まっていなかった。
     春3月というのに雪が降り出す。ストリートライブをやり始めた頃。あっというまにあたりは雪におおわれ「わー、雪だ、きれい」と言っている間に歩行者天国が中止になった。このままではライブができない、急遽歩道でのライブをゲリラ的に行った。当然無許可だ。ただ、秋葉原の客は変わったことをすると食いつきがよく、すぐカメラを向けてくれる。4月も引き続き秋葉原でストリートライブを行うが、2曲目の「モノクロームエフェクト」の途中で警察に止められて中止。それでもめげずにライブをやる。秋葉原をホームとする桃井にPerfumeの活動が耳に入らない筈がない。この頃からPerfumeは秋葉原で桃井が開くイベントに顔を出し会話するようになる。

     6月にはメンバーとスタッフ総出で7月7日のライブチラシ配り&チケットの販売を行う。メジャーデビューが決まったのだ。ライブでメジャーデビューを発表するのだから力が入る。
    最終的に篠木氏がアミューズの中村チーフ、石井、山本の三氏の情熱を買って会社を説得してくれた。篠木氏は語る。「情熱を持って一生懸命取り組んでいるスタッフの気持ちを感じ取り、分からない文化を受け止める勇気も必要だ。熱意を持つ若い人間の後ろ盾になってあげるのが”大人”のスタッフの果たす役割ではないかと」
     最後は「おもしろいから、やってみましょう」と社内会議で言い放ち、説得したという。その頃、秋葉原とつくばを結んだつくばエクスプレスが7月に開設されると話題になっていた。秋葉原で活動しているテクノグループとして売り出すのに「つくばイクスプレス」と「リニアモーターガール」をタイアップしてはどうかという古い世代にも理解しやすい案を出してデビュー作が決まったという。

    あ~ちゃん「2005年といえばメジャーデビューの年です。広島限定デビュー、インディーズデビュー、そしてメジャーデビュー、最後の砦、最後で最後です。メジャーですから、これでダメなら、もうダメ、そいで決意を固めて、頑張った年だと覚えてて、あれ覚えとる」
    かしゆか「覚えとる、覚えとる。いろんなとこ回ったよね」

    2005_制服

     あ~ちゃん「レコード会社の方に挨拶みたいなの行って、会議みたいな、新曲とかメジャーデビューとかする人が来る会議現場みたいなところで、『Perfumeです。よろしくお願いします』みたいな、『制服で来とるよー』みたいなこと言われて、で、『頑張ってね』みたいなこと言われたから、『頑張ります!』みたいな、そんな感じだった、会議が終わって偉い人に挨拶しに行ったじゃん。なんとか部長さんです、『よろしくお願いします』なんとか課長さんです。『よろしくお願いします』社長さんです。『よろしくお願いします』、この人がPerfumeをつなぎとめてくれたすごい人です。『え!、いやー、ありがとうございますー』とか言ったんだけど、『まあ、後、3枚、後3枚出してあげるから、いい思い出に、次の道も考えてといてよ、』そういうことをね」
     かしゆか「高2だっけ(そう高校2年生)いい経験になるからって」
     あ~ちゃん「まるで、今、いい感じに行こうという時なのに、みたいな、いっぱい、挨拶して超前向きな感じで頑張りたいという思いでさー」
     かしゆか「希望に満ち溢れたとった時よね、やっとメジャーデビューができるってなって」
     あ~ちゃん「ありがとうございます、ありがとうございますって顔なんて上がらんわけよ、ずっとこの状態ですよ、びっくりしたよね。いい経験になるんじゃないみたいなこと言われて」
     のっち「オイオイ!って、エッて!」
     あ~ちゃん「3枚だけ出してあげるからー、エーって!」
     のっち「すごい、悔しかったよね。」
     あ~ちゃん「でも、あの時だけは、話したよね」
     かしゆか「帰り道に」
     のっち「本当に結成してから短いというか、その場だけのグループってわけでもないし、それをさー、なんか、ずっと頑張ってきたのに、ポンと入ったレコード会社の偉いかもしれんけど、なんもわからん人にさ、3枚だけ出して解散して、いい思い出にーみたいな、思い出ーッ、これから私たち頑張って行くのに、何言ってんのって思って、3人で帰り道歩きながら、すごい言ってたよね。あの坂道は忘れんねー」
     あ~ちゃん「言ってた、珍しく、広島弁丸出しみたいな感じで」
     のっち「珍しくね、言っとったし、悔しかったし」
     あ~ちゃん「同じように思っとったしね。あの坂道は忘れんね!」 
                                    (PefumeLOCKS)

     音楽業界というのは10本出して1本ヒットが出ればOKの世界である。毎年400組のミュージシャンがデビューして消えていく世界だ。この時の3人には厳しかったかもしれないが、現実であることは確かだ。3人はこの時の口惜しさがバネになったと言っている。3枚だけ出して解散と言っていた人も今やカツサンドとか差し入れ持ってきてくれるらしい。
     7月7日の渋谷O-Westで9月21日にメジャーデビューすることをPerfumeは観客に告知した。

     夏休みに入って血迷ったとしか言えないような活動をPerfumeは行う。9月にメジャーデビューが決まっているのにデビュー作とは全く関係ない「アキハバラブ」という楽曲を歌い、グループ名を「ぱふゅーむ×DJ momo-i(モモーイ)」と変えて毎週秋葉原でライブをやり、8月末にCD発売した。メジャーデビューのためのプロモーション活動ではない。打ち水大作戦という秋葉原から愛知地球博のイベントに参加する仕事だった。そのイベントのために歌うにしても今のPerfumeの姿から見ると「アキハバラブ」は非常に奇妙で特異にみえる。

     ・作詞作曲が中田ヤスタカではない。(桃井はるこ)
     ・ステージに立つのが3人だけではない。(桃井はるこを含めて4人)
     ・声の加工がない。(生歌で3人が歌う)
     ・地球温暖化とかいう政治的メッセージがある。(スポンサーが地域と政府だからか)
     ・振り付けがMIKIKOさんではない。
     ・アートワークやPVが関さんではない。
     ・フリコピ用の上下左右のDVDが付属している。
     ・衣装がヘソ出しルック。(コーディネートは桃井)
     ・原版権がアミューズにない。(Perfumeが自分のライブで勝手に歌うことはできない)
     ・グループ名がPerfumeではない。
     ・主役がPerfumeの3人ではない。

     アキハバラブとは桃井はるこが自分の理想のアイドルをトータルプロデュースする夢を実現させたものだ。原盤権をアミューズが持っていないことから、事務所サイドは音楽制作には何も関わっていない。打ち水大作戦用アニメの声優の作業など桃井サイド中心で動いている。また、制作に当たって桃井個人の持ち出しも多かったに違いない。それほどたった一曲のためにあらゆる部分に桃井自身で手を入れている。何故、そこまでPerfumeのへの楽曲提供にこだわったのだろうか。

     桃井「あのー、この曲はですね、結構、私自身の夢も詰まった、私自身の曲なんですよ。やっぱり2度とないこの夏じゃないですか、今年は、秋葉と愛知地球博でイベントとかやりましたけど、もちろん3人は、前からそうやって出会ってね、英文字のPerfumeとして活動してたわけですよ。それとこのひらがなの「ぱひゅーむ」として、この桃井と、秋葉原という場所で、前からアキハバラブ歌ってもらおうと思ったのは、やっぱり秋葉原でストリートライブをやってたから、Perfumeがやってるの知ってたから。
     どうです?ひらがなの時と英語の時の違いみたいなものは?」
     あ~ちゃん「のりとかも全然違うしー、なんかアキハラブの時の方が、のりがスゴイいいよね。皆さんやってくれるし」
     桃井「独特のノリが、あるので、でもね、実はすごくね、本音を言えば不安だったんですよ。全然違う、180度違うことじゃないですか、昔からのPerfumeファンの人もね、まあ許してやるかみたいな感じで、ありがたいなと思って」
     あ~ちゃん「でもアキハラブをやってるときの方がすごい気持ちがよかったです」
     のっち「すごい、本当に自分の思っている気持ちが、ありがとう、ありがとうという言葉がたくさんでてきて、それを伝えたい、と思いながら歌うというのは、あまりなかったので」
     あ~ちゃん「なかったね、なんか、結構、英字のPerfumeの方は意味のわかんない歌詞だったりとか、英語が一杯あったりとかして、歌い方もね結構クールな感じで、なんにも考えてない感じで、鼻歌みたいな感じで、いつも歌ってって言われるんで、すごいまた新鮮でね、レコーディングも、すごい楽しくて、とってもやりやすかったです。」
     桃井「それは良かった。3人にね、アキハバラブやるってこと、打ち水のイベントやろうと言う時に、なんか中華料理屋でね(笑)」
     あ~ちゃん「豪華なところでしたよね」
     桃井「その時にね、3人の話を聞いててね、今のスタッフの人とか、後capsuleのPerfumeの曲を作ってらっしゃる中田ヤスタカさんのこととか、すごく感謝の念をね、持っていることがわかったのね。それがすごいな、素晴らしいなと思って、なんかそういうことをねー、込めて歌えるような曲にしたいし、ファンの人達に対しても、そう思ったから、そう言ってもらえると嬉しいですね」
     あ~ちゃん「はい、すごい、入り込みやすかったよね、ありがたいです」
     桃井「Perfumeの英文字の活動も私はすごい好きで、友達からすごい、すごいんだよって言われてCDとか、もらったりとか聞いたりとか、すごいとか思ってて、何回か一緒にライブやったりとか機会が前あったんだけど、だからすごく英文字のPerfumeに敬意を表してのひらがなの「ぱふゅーむ」にしたんですよ。また、それとは違う面でねって」
                             「Perfumeがモモーイのラジオゲストに」(2005/9/4)


     メジャーデビュー後の11月20日の渋谷O-EastにおけるWonder momo-i Live tour最終公演にPerfumeはサプライズゲストとして出演している。この時のPerfumeの動画があるので見てほしい。11月には寒すぎる夏の舞台衣装だが、リハーサルでドリンクを回し飲みしている3人が初々しい。



     アンコールの舞台裏で「はるこが見たい、もう1度はるこが見たい、はるこがみたーい!」と声を上げるファンと一緒にPerfumeも声を出している。そして、ひらがなの「ぱふゅーむ」であっても3人が歌い踊るだけでPerfumeが成立してしまうことをこのビデオは証明している。
     のっちは後にアキハラブでお客が求めているのはPerfumeではなくて結局、桃井さんなんですよと語っている。彼女達はアキハバラブがPerfumeにとってどんなものか自覚していた。
     この頃の3人はPerfumeの方向性について信じ切れていなかったと私は思う。わかりやすいとは決して言えない木の子氏の歌詞、ピコピコした音、近未来風の変な衣装、アクターズの頃の発声の全否定、チラシを目の前で捨てていく通行人、前座のPerfumeに早く終われと罵声を浴びせる観客、250人以上どうしても増えてくれない観客、どうやって自分を変えていけばいいのかわからない、CDを後3枚出したら本当に引退しなければいけないのか、どういう顔をして広島に帰ればいいのか、アクターズの頃は隠されていた現実の壁にぶつかって、徐々に光を失っていた彼女達。彼女達が信じるPerfumeへの背信、裏切りの季節に彼女達がいたとして誰が責めることができるだろうか。最後の時に3人でいられるためにどんな手段を使ってもいいと思ったとしも、暗黙の共犯幻想があったとしても。ただ、そんな自分達が許せず、その頃のPerfumeをあ~ちゃんは血迷っていたと言うしかなかったのではないか。3年後に中田さんの曲が認められなくなったときはPerfumeが終わる時だとあ~ちゃんが言い放つことになる。まだ、そこまでのPerfumeチームへの確信はこの頃のPerfumeにはなかった。
     彼女達にとってアクターズの頃のように精一杯歌って踊る「アキハバラブ」は必要な体験だったのではないか。その頃のPerfumeにとって足りないものがあったとしたら、それは楽曲に対する愛だ。学校に行っても胸を張って自分達の歌を話題にすることはなかった。好きな歌を歌い踊るからこそ輝ける。アクターズの頃のように歌うことが踊ることが楽しくてしょうがなかった時代を思い出すために、今のPerfumeの方向性とは180度違う曲を敢えて桃井は作曲しプロデュースしたのではないか。彼女達にもう一度思い出してほしかったから、あえてアクターズの頃のひらがなの「ぱふゅーむ」を桃井はグループ名に選んだのではないだろうか。会って話せば話す程、Perfumeに惹かれていく、秋葉原という小さな世界から飛び出して、どこまでいくかわからない可能性を桃井はPerfumeに感じたのではないだろうか。
     桃井の楽曲で特徴的なのは観客とコール&レスポンスを想定した間を最初から曲に作りこんだ曲構成になっているところだ。
     中田ヤスタカはライブ用に曲を作ったりはしない。ただ、長い間奏を入れることは多い。そこにPerfumeは客と一緒に踊り声を掛け合う間を作りだす。観客と一緒にライブで育てていく楽曲がある。そんなファンと共にある楽しさを秋葉原でストリートライブをやってきたものとして、桃井はPerfumeに伝えたかったのかもしれない。
    Perfumeにとって無駄なことなど一つとしてなかったのだ。
     そして、Perfumeはこの後、運命の曲と出会う。最後に残っていたパズルのピースが見つかる。初めて好きになった歌、初めて中田ヤスタカの歌詞がヤスタカの楽曲にのったコンピューターシティ。

    コンピューターシティ
    作詞作曲:中田ヤスタカ
    完璧な計算で造られた楽園で 一つだけ うそじゃない 愛してる
    どうしてねえコンピューター こんなに苦しいの
    あーどうして おか(しい)の コンピューターシティ

    記憶と記憶の間たどって 誰も見たことのない場所で
    夢の中で描いていた場所へ ありふれたスピードを越えて
    もうすぐ 変わるの 世界が もうすぐ ぼくらの 何かが 変わるよ

    完璧な計算で造られた この街を 逃げ出し(たい) 壊したい
    真実は あるのかな
    完璧な計算で造られた楽園で 一つだけ うそじゃない 愛してる

    どうしてねえコンピューター こんなに苦しいの
    あーどうして おか(しい)の コンピューターシティ

    絶対故障だ ていうかありえない 
    僕が君の言葉で 悩むはずはない



     2006年初頭に発表されたコンピューターシティは裏切りの季節が終わりPerfumeのスタイルが確立する季節の到来を告げることになる。

    2013.10.31 | コメント(0) | トラックバック(0) | Perfume

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